北野天満宮近くに息づく秀吉ゆかりの三寺院

画像 : 狩野光信画『豊臣秀吉像』 public domain
豊臣秀吉は大坂城を軍事的拠点としながら、京都に聚楽第を造営し、ここを政治の中心としました。
天皇や公家衆と積極的に交わり、ついには「豊臣」の姓を賜るに至った秀吉。京都との結びつきは、極めて深いものでした。
そのため京都には、秀吉ゆかりの寺院が数多く残されています。
たとえば、大仏を安置した方広寺、北政所が秀吉の菩提を弔うために創建した高台寺、幼くして亡くなった実子・鶴松の菩提寺を起源とする智積院、さらに青蓮院や圓徳院など、名だたる寺院が並びます。
しかし、こうした寺々は人気も高く、常に多くの参拝客で賑わっています。
そこで今回は、北野大茶湯が催された北野天満宮の近くに佇む三寺院、「福勝寺」「椿寺 地蔵院」「浄土院」に目を向けてみましょう。
いずれも観光名所とは一線を画す、地元西陣に根ざした寺院です。
しかしそこには、秀吉との濃密な歴史が静かに息づいています。
俗に“ひょうたん寺”と呼ばれる「福勝寺」

画像:福勝寺本堂(撮影:高野晃彰)
山号を竹林山という福勝寺は、本尊に薬師如来を祀り、札所本尊として聖観音菩薩を安置しています。
弘法大師空海が河内国に創建したと伝わるものの、のちに衰退。
鎌倉時代の正嘉年間(1257~59)、東寺(教王護国寺)の長官であった覚済上人により再興されました。
秀吉は当寺の歓喜天を篤く信仰し、出陣のたびに武運長久を祈願して瓢箪を奉納したと伝わります。
これが“ひょうたん寺”の由来です。

画像:福勝寺。御所から分枝した桜(撮影:高野晃彰)
また、後陽成天皇・後西天皇の勅願寺となったとも伝えられ、本堂脇壇に安置される聖観音菩薩は、後西天皇の勅願によるものとされます。
願いが成就したのち、「観世音菩薩」の名号とともに御所の左近桜を分木して下賜されたという伝承もあり、以来「桜寺」とも称されるようになりました。
五色八重の“散り椿”で知られる「椿寺 地蔵院」

画像:椿寺 地蔵院(撮影:高野晃彰)
椿寺 地蔵院は、行基が726年(神亀3年)、聖武天皇の勅願により創建したと伝わる古刹です。
平安期には七堂伽藍を誇りましたが、戦乱で焼失。室町幕府三代将軍足利義満が金閣造営の余材で仮堂を建て、再興したといいます。
「椿寺」の名は、名物の“散り椿”に由来します。
五色八重の花を咲かせるこの椿は、朝鮮出兵の際、加藤清正が朝鮮・蔚山城から持ち帰り、秀吉に献上した椿に由来するとも伝えられます。

画像:椿寺の散り椿(撮影:高野晃彰)
北野大茶湯の際、秀吉が当寺に献木したともされ、現在の椿は二代目にあたるとか。
春には赤・桃・白・絞りの花が咲き誇り、落ちた花弁が地面を染め上げる光景が楽しめます。
観音堂には、慈覚大師作と伝わる一木造の十一面観音菩薩像(平安前期)が安置されています。
“茶くれん寺”と呼ばれた「浄土院」

画像:浄土院(撮影:高野晃彰)
浄土院の山号は湯たく山。親しみを込めて「湯たく山茶くれん寺」と呼ばれています。
1587年(天正15年)、秀吉が北野大茶湯のため北野を訪れた際、当寺に立ち寄ったといいます。
喉の渇きを覚えた秀吉は庵主に茶を所望。あっという間に飲み干し、二杯目も求めました。
しかし庵主は、未熟な点前を二度も太閤に差し出すのは失礼と考え、境内の湧水「銀水」の白湯を出しました。
すると秀吉は、「茶を頼んでいるのに白湯ばかり出す。茶をくれん」と笑ったといいます。これが通称の由来です。

画像:浄土院の寒山・拾得像(撮影:高野晃彰)
さらに当寺には、千利休と深い関わりを持つ千家十職の一つ、楽焼の祖である楽長次郎作の「寒山・拾得」像が本堂の屋根に据えられています。
茶の世界では知らぬ者のない名工の作が、さりげなく置かれている。それもまた、京都らしい風景といえるでしょう。
今回紹介した三寺院はいずれも、秀吉が北野大茶湯を催し、菅原道真を祀る北野天満宮のほど近くに佇んでいます。
境内には北野大茶湯址の石碑も残り、かつて天下人が集めた熱気を、いまも静かに伝えています。
けれど少し足を延ばせば、そこにあるのは観光の喧騒とは無縁の、ひっそりとした祈りの空間。
瓢箪を奉じた武運の願い、散り椿に託した春の記憶、そして「茶をくれん」と笑った人間味。
北野を歩くとき、ほんの少しだけ路地を外れてみる。
そこには、天下人という名の向こう側にある、もう一人の秀吉の息づかいを感じられるのです。
参考 :
福勝寺公式サイト、椿寺 地蔵院関連サイト、浄土院関連サイト
※京都歴史文化研究会(高野晃彰)著 『京都札所めぐり 御朱印を求めて歩く』メイツユニバーサルコンテンツ
文:写真 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

























この記事へのコメントはありません。