
画像:リデル・ライト両女史記念館、以前、熊本初のハンセン病病院、回春病院の研究室であった wiki c Ichiro Kikuchi
ハンナ・リデルは、明治時代に宣教師として来日したイギリス人女性である。
祖国イギリスで学校経営を行っていた彼女は、35歳の時に英国国教会の宣教師として日本に降り立ち、熊本で多くのハンセン病患者が苦しむ様子を目の当たりにして、その救済を生涯の目的とすることを決心したという。
しかしハンナは莫大な資金を持っていたわけでもない一介の宣教師に過ぎなかった。そんな彼女は、どのようにしてハンセン病患者救済のための病院を創設し、運営していたのだろうか。
今回はハンセン病治療を目的とした回春病院の設立者、ハンナ・リデルの歩みを掘り下げていきたい。
熊本本妙寺に集まったハンセン病患者

画像:ハンセン病を患った夫と看病する妻を描いた月岡芳年の浮世絵。周囲から離婚を勧められても夫を見捨てることなく一家を支える妻に対して褒美が出たことを報じている。『郵便報知新聞』1875年 public domain
ハンセン病は、かつて罹患した人々が社会的な誤解による偏見と不当な差別に苦しんだ感染症だ。
日本でも奈良時代にはハンセン病を思わせる記述が『日本書紀』などに見られるほど古い歴史を持つ感染症だが、治療を行わず重症化すると皮膚・神経症状による見た目の変化や機能障害が著しくなるため、感染者は忌避され続けてきた。
第二次世界大戦後に治療薬の使用が始まってからも、その流れは改まらなかった。
こうした患者の人権を無視した政策は、1931年の「癩予防法」、1953年の「らい予防法」を経ながら、1996年に廃止されるまで続けられていたのだ。
日本の歴史上の人物にも、ハンセン病に罹患していたと考えられてきた人物が少なからずいる。肥後熊本初代藩主の加藤清正も、そのように語られてきた人物の1人である。
日蓮宗の信徒であった加藤清正を祀る熊本市西区の本妙寺は、病に対する偏見で仕事にも就けない日本中のハンセン病患者が、病気平癒と参拝者の喜捨を望んで大勢集まる場所となっていた。

画像:加藤清正を祀る本妙寺浄池廟拝殿(熊本市) wiki c Simasakon
1855年にロンドン郊外で生まれ、1889年までに両親を亡くしたハンナは、母と共に経営していた女子学校が破産してから英国国教会の組織に入り、キリスト教女性青年協会の婦人校長を勤め、宣教師として1891年に来日した。
当初はハンセン病患者を救済するつもりは微塵もなく、むしろ日本にもハンセン病患者がいることなど露とも知らなかった。
来日後に訪れた本妙寺にて、ハンナはハンセン病患者たちが必死の形相で喜捨を募り、病気平癒の祈りを捧げる光景を目の当たりにした。
そして誰にも顧みられなかったハワイのハンセン病患者の救済に生涯を捧げた宣教師・ダミアン神父のような人物が、この熊本の地にも必要であると痛感したという。
ハンナやダミアン神父のようなキリスト教者が、ハンセン病患者に対して特別な思いを抱いたのには理由がある。
旧約聖書にはツァラアト、新約聖書にはレプラという名称の、ハンセン病の可能性を含む重度の皮膚症状を示す病気に罹患した人々が登場する。
この病に苦しむ患者は人々から汚れとして忌み嫌われていたが、イエスは彼らを憐れみ、共同体から引き離され隔離されていた患者の肌に、直接触れて癒し清めたという奇跡が語られている。
使命感に駆られたハンナは早速、自らが所属する英国聖公会宣教協会に手紙を送り、日本のハンセン病患者を救う施設と人員が必要であることを打診したのだ。
回春病院開業

画像:大隈重信はハンナの協力者の1人だった。 public domain
しかし、ハンナから打診を受けた英国聖公会宣教協会は、当初協力的な態度を見せなかった。
ハンナは英国聖公会宣教協会の首脳との交渉を求め、この過程で協会内部との対立も深まっていったという。
協会側に敵を多く作ったが、ハンナは諦めなかった。
本妙寺で初めて日本のハンセン病患者と遭遇してから4年後の1895年には、熊本初のハンセン病病院である「回春病院」を開設するに至る。
回春病院という病院名には、患者に再び春が戻ってくるようにという願いが込められた。
しかし、職に就けず治療費を捻出できないハンセン病患者の救済を行うには、ハンナ自身が費用を工面していかなくてはならない。
日露戦争をきっかけにイギリスからの寄付が断たれたハンナは、日本で寄付を募るため、上流階級さながらに着飾って社交界に踏み込み、財力のある権力者と交流を図った。

画像:初代帝国ホテル(1890年) ハンナ・リデルは帝国ホテルで有力者との交渉を行っていた。 public domain
ハンナには権力者の協力を得る天性の才能があり、熊本藩主であった細川家からは3000坪の土地が寄贈され、大隈重信や渋沢栄一からも寄付を受けたという。
大隈重信はハンナに協力的で、ハンナが経済的な危機に陥った時は支援のために、銀行会館でハンセン病問題を取り上げた。
大隈の協力もあり、回春病院は非営利団体として公的に認められ、非課税の待遇を受けられるようになった。
募金活動を行うために講演を精力的にこなし、実業家や政治家、皇族とのパイプも繋げた。
貴族のように着飾って、上流階級の人物と交流するハンナを見て、自分の贅沢のために病院経営を始めたのではないかと疑った人は、当時にもいたかもしれない。
しかし回春病院に入院していた人物の証言によれば、ハンナは決して患者を汚すようなことはせず、キリスト教由来の施設として信仰は重んじられたが、強いられることはなかった。
一方で患者同士の男女交流には非常に厳格で、ハンナ自身も生涯独身を貫いた人物だった。
協力者は目的のために強引な手段を取るハンナの性格に難儀させられたが、ハンセン病患者に対しては、秩序には厳しくありながらも、変わらぬ献身をもって接していたという。
回春病院の閉鎖とハンセン病患者の隔離政策

画像:らい予防法闘争でハンガーストライキ中の大島青松園の患者たち public domain
1932年にハンナが78歳で死去した後、病院の権利はハンナが目をかけていた姪のエダ・ハンナ・ライトが引き継いだ。
しかし日英開戦を前にエダにはスパイ容疑がかけられ、オーストラリアの亡命を余儀なくされてしまった。
ハンナの死から9年後の1941年2月3日、患者の生活環境を整えながら救済を続けてきた回春病院は、閉鎖するに至った。
その後、日本でも1946年から治療薬プロミンが使われるようになり、ハンセン病は治療可能な病気へと変わっていった。だが日本の隔離政策はその後も改められず、1953年の「らい予防法」でも維持され、患者たちは自由を奪われ、結婚や出産にも深い制約を受けることになった。
1996年にはようやく「らい予防法」が廃止された。
本妙寺で苦しむ患者たちの姿を目にし、救済に生涯を捧げたハンナ・リデルの歩みは、近代日本がハンセン病患者をどう扱ってきたのかを考えるうえでも、いまなお重い意味を持っている。
参考文献
猪飼 隆明 (著)『ハンナ・リデルと回春病院』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

























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