大正&昭和

高倉健の元妻・江利チエミの波乱の生涯「異父姉の嫉妬が生んだ数億円の借金」

戦後、ピアノ弾きの父親に連れられて進駐軍のキャンプを回り歌を歌った少女がいた。

その少女の名は江利チエミ

全国各地のキャンプで喝采を浴びたチエミは、15歳でレコードデビューし、その後、美空ひばり、雪村いづみとともに『三人娘』と呼ばれ一世を風靡した。

しかし、その活躍の裏では度重なる身内の不幸、異父姉の裏切り、離婚、借金生活などショッキングなことの連続だった。

今回は、江利チエミの波乱の生涯をたどる。

バンドマンの父親と女優の母親の間に生まれ、歌手を夢見る

画像 : 江利チエミ(ロサンゼルス・リトルトーキョーの羅府新報社前)Public domain

昭和12年(1937)1月、江利チエミ(本名・久保智恵美)は、3男1女の末っ子として東京都台東区入谷で生まれた。

父・益雄は吉本興業に所属し、看板芸人だった初代柳家三亀松の相三味線やピアノ伴奏を務めていた。
音楽の才に恵まれた益雄は、のちに吉本の専属バンドマスターとなり、豪華客船の船内ダンスホールでも演奏した。

母は浅草軽演劇の女優・谷崎歳子で、のちに吉本興業に所属し、笠置シヅ子や榎本健一とも共演したことのある明るい喜劇女優だった。だが、智恵美を身ごもるころから身体を壊し、一線を退いた。

その後、世の中の戦時色は濃くなっていき、両親は防空ずきんにゲートル、もんぺ姿で公演先へ向かうようになった。

昭和18年(1943)4月、チエミは小学校へ入学したが、連日の空襲によって入谷の家が焼けてしまったため、一家は東京の大井町の仮住居へ移った。
まもなく母親の親戚がいる山梨県甲府へ疎開したが、その甲府の家も爆撃を受けて全焼した。
この時、チエミは親戚の子の葬式のために東京にいて、命が助かったのだった。

終戦後、腎臓を患っていた母親は仕事を辞めて寝たきりの状態になったが、チエミはかなしそうな様子も見せず明るく過ごしていたという。

それから一家は三鷹へ引っ越した。この頃からチエミは学校から帰ると、家の鴨居に紐をぶらさげてその先にタワシをつけた手作りのマイクで、歌を歌ったりかつて母親が浅草でやっていた芝居の真似をしたりした。

歌が大好きな彼女は「私、歌手になる!」と目を輝かせながら母親に話したのだった。

進駐軍キャンプで歌い、15歳でレコードデビューする

画像 : 江利チエミ Public domain

昭和22年(1947)、父・益雄が師匠の三亀松と衝突して仕事を失うと、一家の暮らしはたちまち困窮した。
益雄はその後、進駐軍のクラブでピアノ伴奏をして、どうにか収入を得るようになる。

やがて仕事仲間の紹介で、アメリカ兵がよく集まる料亭でジャズ伴奏をするようになると、まだ小学生だったチエミも父に連れられて店に出るようになった。
そこで歌うと座は大いに盛り上がり、彼女は喝采を浴びた。

その評判はやがて兵士たちのあいだで広まり、駐屯キャンプでも歌ってほしいと望まれるようになる。
兵士たちは『テネシー・ワルツ』や『カモンナ・マイ・ハウス』など、祖国の新しいレコードをチエミに贈った。
彼女はそれを擦り切れるほど聴き込み、歌を身体で覚えていった。

12歳のころ、父が手に大怪我を負って演奏できなくなると、チエミは都内の進駐軍クラブだけでなく、各地の米軍キャンプを回って歌うようになる。

このころ母が名付けた「江利チエミ」の芸名で知られるようになり、その歌声は全国のキャンプで評判を呼んだ。
小学5、6年生のころには学校にも満足に通えず、たまに登校しても昼過ぎには迎えの車でキャンプへ向かうほどの忙しさだった。

昭和26年(1951)、歌手デビューするためにコロムビア、ビクターなどのレコード会社のオーディションを受けたが、どの会社からも断られる。

その後、キングレコードのオーディションを受けることが決まったが、その数日後に母親はこの世を去り、何ひとつ手助けできなかったことを深く悔やんだという。

そして翌昭和27年(1952)、チエミは「15歳の天才少女」としてキングレコードから『テネシー・ワルツ』でデビューする。

レコードは大ヒットし、さらに映画『猛獣使いの少女』では主演も務め、ジャズ歌手としてだけでなく映画界でも注目を集めた。

美空ひばり、雪村いづみとともに『三人娘』として活躍

画像 : 江利チエミ(1954年10月3日 都内コンサート)Public domain

昭和28年(1953)、デビュー曲が大ヒットしたチエミは、アメリカに招かれて公演を行い大好評を博した。

ハワイでは5人組コーラスグループのデルタ・リズム・ボーイズと出会い、その後、日本でデルタ・リズム・ボーイズとの共演を果たした。

チエミの歌に驚嘆したデルタのトップテナーであるカール・ジョーンズは、自分の培ったテクニックのすべてを彼女に教えたという。

当時、チエミは美空ひばり、雪村いづみとともにティーンエイジャーを代表して脚光を浴びた。

同じ昭和12年生まれ、才能あふれる少女歌手の彼女たちは「三人娘」と呼ばれ活躍し、18歳の時に東宝映画『ジャンケン娘』で初共演した。

画像 : 美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみの「三人娘」が初めて共演した『ジャンケン娘』public domain

また、チエミはその明るく親しみやすいタレント性を買われて、長谷川町子の漫画『サザエさん』の映画で主人公・サザエさんを演じた。

後にテレビドラマにもなり、サザエさん役は当たり役となった。

昭和31年(1956)、チエミは東映の『恐怖の空中殺人』で俳優・高倉健と共演する。

当時、人気絶頂のチエミに対して、高倉はまだ名の知られない新人俳優だったが、彼は映画共演する前から彼女に対して密かに好意を抱いていた。

そして徐々に2人の距離は近づいていき、昭和34年(1959)に結婚して世田谷区に新居を構えた。

画像 : 高倉健と江利チエミ(1960年『家庭全科』2月号) Public domain

結婚後、チエミは仕事を離れて家庭に入ったが、翌昭和35年(1960)には再び芸能活動を本格化させた。

だが3年後に授かった子は、妊娠高血圧症候群のため母体と胎児の双方が危険な状態となり、中絶を余儀なくされた。

そのころ父が再婚し、昭和36年(1961)秋には弟が生まれる。
だがその同じ日、チエミがわが子のようにかわいがっていた次兄の子・サトシが事故で命を落とす。

彼女は仕事先で、新しい命の誕生と愛する子の死を同時に知らされることになった。

突然現れた異父姉・Y子の嫉妬

画像 : 江利チエミ public domain

昭和37年(1962)夏、母の歳子が父と結婚する前に産んでいた異父姉・Y子が、突然チエミの前に現れた。
Y子はある日、人気歌手となっていたチエミが自分の異父妹であることを知ったという。

母の面影を宿したY子に、チエミは強く心を動かされた。
Y子から、夫との離婚や生活苦を打ち明けられると、彼女は同居して支える道を選び、子どもたちの養育費まで負担するなど、面倒を一手に引き受けていった。

昭和38年(1963)、チエミはブロードウェイ・ミュージカル『マイ・フェア・レディ』で主演を務め、テアトロン賞を受賞する。その後も『キス・ミー・ケイト』や舞台版『サザエさん』に立ち、女優としての評価を確かなものにしていった。

だがその裏で、私生活は大きく揺らいでいく。

昭和45年(1970)1月、自宅が火災で焼失し、さらに翌年には母親代わりとして彼女を支えてきた長兄・トオルが脳溢血で急逝した。
度重なる喪失に見舞われながらも、夫・高倉の存在に支えられ、チエミはなんとか踏みとどまろうとした。
だがこのあと、彼女を突き落とす思いがけない裏切りが待っていた。

長兄の死後、チエミは信頼していたY子に通帳や実印を預け、家計を一任していた。

だが、気づいたときには財産のほとんどが失われ、チエミは2億円とも3億円ともいわれる借金を背負わされていた。Y子は預金を使い込み、不動産を担保に入れ、高倉健とチエミの双方に中傷を吹き込んで夫婦仲まで揺さぶったという。

そこにあったのは、「大スターの妹」への激しい嫉妬だった。

チエミは高倉にこれ以上迷惑をかけまいと離婚を決意し、翌昭和47年(1972)、断腸の思いでY子を告訴した。

Y子には懲役3年の実刑が下り、彼女は億単位の借金を背負ったまま、ひとりで返済の道を歩むことになる。

新たな人生と最後

画像 : 江利チエミの墓(東京都世田谷区・法徳寺)Public domain

億単位の借金を抱えたチエミは、千駄ヶ谷の実家近くのワンルームで生活を立て直し、一から出直す。

舞台『二十四の瞳』では自身の疎開体験を重ねて教師役を演じ、昭和55年(1980)にはデビュー30周年記念リサイタルを成功させた。

舞台の出演料や歌の印税の大半を返済に充て、生活を切り詰めながらも、彼女はついに借金を完済する。港区・高輪ヒルズに移り、新たな人生を歩み始めた。

しかし昭和57年(1982)2月、チエミは自宅マンションで突然倒れた。脳卒中により意識を失い、吐物の誤嚥によって窒息し、そのまま45歳でこの世を去った。

第一線で歌い続けることを望んでいた彼女にとって、その最期はあまりにも突然のものだった。
高倉は葬儀には姿を見せなかったが、本名で供花を贈り、その後も命日のころには墓参を続けていたという。

参考文献
藤原佑好「江利チエミ物語」長崎出版2006 他
文 / 草の実堂編集部

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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