NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で、松下洸平が演じる徳川家康の人物像が評判を呼んでいる。
松下といえば、2023年放映のフジテレビ系ドラマ『いちばんすきな花』で「人の話を黙って聞いてくれる人」という印象の春木椿を演じたことが記憶に新しい。
端正な顔立ちと、どこか柔らかな雰囲気をまとった良い人のイメージは、あの独特な空気感のドラマに実によく似合っていた。
そんな松下が演じる家康は、放送前から「史上最高の二枚目家康」などと大河ファンの間で話題になっていた。
ところがいざ登場してみると、その言動は本心なのか、とぼけているのか判然としない、実にユニークな家康像となっている。
今回はそんな家康なら「やりかねない」と思わせる、秀吉亡き後のある行動についてお話ししたい。
秀吉の死後、実権を握った徳川家康

画像 : 徳川家康肖像画 public domain
1598年(慶長3年)8月18日、豊臣秀吉は伏見城で62年の生涯を閉じた。
辞世の句は、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」。
その生涯を振り返ると、一介の農民から関白・太政大臣へ、まさに「夢」のような人生であった。
秀吉の死後、豊臣政権の最高実力者となったのは、五大老筆頭の徳川家康である。
家康は秀吉が晩年の拠点とした伏見城に入り「秀頼が成人するまで政事を支える」という遺命のもと政務を担った。
しかし家康の政治運営は、五大老の一人前田利家や、五奉行の石田三成らから「専横」と受け取られる場面が増えていく。
発端は、秀吉により禁じられていた大名家同士の婚姻を家康が独断で認めたことだった。
さらに家康は細川忠興ら諸大名と私的に誓紙を交わし、五奉行の増田長盛とも接近したため、三成らから警戒されていく。
大坂城西の丸は豊臣政権の中枢だった

画像 : 北政所・ねね『絹本着色高台院像』(高台寺所蔵)public domain
1599年(慶長4年)3月、豊臣政権で重きをなしていた前田利家が没する。
するとその直後、福島正則や加藤清正ら武断派七将が、石田三成を襲撃する事件が起きた。
この内紛を仲裁したのが家康であった。
家康は北政所(寧々)と協力し、調停者として事件を収めたことで豊臣家中での存在感をさらに高める。
そのような中、家康は1599年(慶長4年)9月下旬、大坂城へ入り、西の丸に滞在するようになった。
そして家康は、黒田長政ら自派に近い大名たちとの関係を背景に、大坂城西の丸への滞在を既成事実化していった。
家康が大坂城入りを急いだ背景には、豊臣政権の中枢が大坂城にあったことが大きい。
多くの有力大名の屋敷も城内に集まっており、政権の実務を握る家康が城外にいることは政治的にも不自然だった。
しかし、大坂城内には家康が入るための屋敷がなかった。
そこで北政所は、西の丸の広大な屋敷を家康に譲り、自らは京都新城へ移ったのである。
二つの天守が予兆した豊臣政権の終焉

画像:大坂城の二つの天守/奥が本丸天守、手前が西の丸に家康が築いた天守(大坂夏の陣図) public domain
西の丸は本丸のすぐ隣に位置する、大坂城でも最重要の区画である。
かつては秀吉の弟・豊臣秀長が屋敷を構えていた場所でもあり、ここに居を構えることは豊臣政権における最重要人物であることを意味していた。
そして家康は、この西の丸で自らの権威を示す行動に出る。
なんと自らのための天守を築いてしまったのだ。
この「西の丸天守」は、本丸天守より一回り小さい4層の天守だったとされる。
しかし結果として、大坂城は秀頼の天守と家康の天守という二つの天守が並び立つ、異様な城郭となってしまったのである。
安土桃山期において天守は権威の象徴であり、この時の家康はまだ豊臣家の家臣という立場にあった。

画像 : 豊臣秀頼 public domain
これは徳川と豊臣が同じ大坂城内に並び立つ存在であることを、目に見える形で示す行為だった。
もちろん家康がただちに豊臣家打倒を宣言したわけではない。しかし、秀頼の本丸天守に対するように西の丸天守を築いたことは、反家康派にとって見過ごせない挑発に映ったはずである。
実際、翌年の「内府ちがひの条々」では「御本丸のごとく殿守を被上候事」として、この西の丸天守が家康弾劾の一項目に挙げられている。
豊臣政権の中枢である大坂城に、秀頼の天守と家康の天守が並び立つ異様な風景は、関ヶ原前夜の権力構造を象徴していた。
それは、豊臣政権の終わりを予感させる光景だったのである。
※参考文献
千田嘉博著『城郭考古学の冒険』幻冬舎新書
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

























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