時は元亀4年(1573年)7月20日、木下藤吉郎秀吉は、苗字を木下から羽柴に改めました。
これまで日吉丸(幼名)→藤吉郎(小者)→中村藤吉郎(足軽)→木下藤吉郎(足軽組頭)→木下藤吉郎秀吉(足軽大将)……と出世に応じて改名を繰り返してきた秀吉は、また一段と天下獲りへの歩みを進めていくのでした。
※名前や身分には諸説あります。
中村という苗字は足軽(武士)となった記念に故郷の中村をそのまま名乗ったもの、木下については木下雅楽助(うたのすけ)から与えられた、または寧々との結婚で木下家の入婿になったためと言われますが、羽柴の苗字にはどんな由来があるのでしょうか。
丹羽+柴田=羽柴?

画像:丹羽長秀 public domain
寛永8年(1631年)に竹中重門(半兵衛の子)が記した『豊鑑(とよかがみ。秀吉伝記)』によると、丹羽長秀から「羽」、柴田勝家から「柴」の文字をもらって組み合わせたと言われています。
……其頃(そのころ)信長の心に叶ひののじる柴田修理亮勝家、丹羽越前守長秀とかやいひしかば、其人(そのひと)の名字を、一字づゝ賜らんとて、丹羽の羽に、柴田の柴をそへ、羽柴筑前守と改給しとなり……
※『豊鑑』より
【意訳】そのころ、織田信長の心に適う名臣として、柴田勝家と丹羽長秀が挙げられた。そこで彼らの苗字から一文字ずついただこうと思い、丹「羽」と「柴」田を合わせて羽柴筑前守(ちくぜんのかみ)と改名した。
……純粋に読めば「なるほどそうなのか」とは思いつつ、疑問も否めません。
柴田勝家に失礼ではないか?

画像 : 柴田勝家 public domain
人間の頭や足と同じく、苗字や名前(諱)も先に置かれる文字が重んじられることがあります。
例えば、秀吉の弟である小一郎のフルネームは木下小一郎「長秀」。この長秀は主君の信「長」の足と、兄の「秀」吉の頭の組み合わせ。つまり「信長の足を、秀吉の頭上に置いている」という明らかな上下関係が示されていました。
これに照らし合わせれば、羽柴という苗字は「丹羽長秀の足を、柴田勝家の頭上に置いている」ように思えてしまいます。
もし両者の苗字から一文字ずつもらうなら、必ずどちらかを後にしなければなりません。であればどちらの顔も立つように、丹田もしくは柴羽(いずれも頭と足の組み合わせ)とするのが無難ではないでしょうか。
あるいは信長のご機嫌をとるために、信長が最も気に入っていた丹羽長秀を、あえて(失礼は百も承知で)柴田勝家の上に置いた可能性もなくはありません。
当の秀吉はまだ「木下藤吉郎」と署名していた

画像 : 奔走する秀吉。月岡芳年筆 Public Domain
『豊鑑』では、早い時期から秀吉が羽柴の苗字を使い始めたように記されていますが、当の秀吉は永禄12年(1569年)4月16日付の文書で、まだ「木下藤吉郎」と署名していました。
明らかに矛盾しており、この辺りは竹中重門の記憶違いだったのかも知れません。
そうなると『豊鑑』の丹羽+柴田=羽柴説はちょっとあやしく思えてしまうものの、今のところこれ以外の説は提唱されていないようです。
ともあれ元亀4年(1573年)以降、秀吉は羽柴の苗字を用いるようになり、やがて筑前守も称するようになったのでした。
小一郎はまだ「木下」だった

画像 : 奮戦する小一郎。歌川豊宣筆
かくして木下藤吉郎から羽柴秀吉となった秀吉ですが、弟の小一郎はまだしばらく木下の苗字で署名していたようです。
小一郎が羽柴小一郎長秀と名乗り始めるのは天正3年(1575年)に入ってからで、そのあたりから一族全体で羽柴の苗字を名乗るようになりました。
はじめは秀吉一人が羽柴で、遅れて小一郎や一族が羽柴を名乗るようになったのは、どういう事情があったのでしょうね。
あまり使われなくなる羽柴の苗字

画像 : 夜襲をかける秀吉。歌川豊宣筆
かくして誕生した羽柴の苗字。
しかし本能寺の変(天正10・1582年)で信長が横死を遂げ、その混乱に乗じて織田政権を乗っ取ると、秀吉は羽柴の苗字をあまり使わなくなります。
厳密には「秀吉が羽柴であることは変わらないが、署名しなくなった」と言えるでしょう。
秀吉は自身の地位が高まり、磐石になっていくにつれて尊大になっていきました。
例えば書状を発給する時は奉書(ほうしょ)を用い、自分で署名する時もただ「秀吉」だったり、花押(サイン)や印判(ハンコ)のみだったりしたのです。
※奉書:秀吉が相手Aに書状を出す時、直接自己名義で書状を作成するのではなく、家臣Bに内容を口述して家臣B名義で相手Aへ書状を出させる形式、およびその書状。
これらは明らかに下位者へ対する態度であり、名前のみ・花押のみ・印判のみというのは無礼ですらありました。
「わし(秀吉)じゃ!わかるじゃろ。文句あるか?」と言わんばかりの傲岸不遜ぶりは、さすが天下人と言ったところでしょうか。
ちなみに秀吉が羽柴の苗字を最後に使ったのは天正13年(1585年)10月13日、遠藤基信(えんどう もとのぶ。伊達政宗家臣)への書状でした。
羽柴の本姓は?

画像:豊臣秀吉 Public Domain
元は名もなき百姓出身の秀吉に本姓(ほんせい。本来の出自)もへったくれもありませんが、秀吉ははじめ平氏の子孫(※)と自称したようです。
(※)秀吉が入婿となった杉原氏(寧々の実家)の庶流である木下家は、平氏の流れをくむとされるため。
やがて関白就任に臨んで近衛前久(このゑ さきひさ)の猶子となったことから、本姓を藤原氏に改めました。
そして天正14年(1586年)、正親町天皇から豊臣の姓を賜ったことで、秀吉は羽柴という名字を持ちながら、本姓として豊臣を名乗る立場となったのでした。
バラまかれた羽柴の苗字

画像 : 豊臣秀吉坐像(狩野随川作)public domain
自分では使わなくなった羽柴の苗字ですが、せっかく作ったからとばかり、秀吉は羽柴の苗字を大名や家臣たちに大盤振る舞いしたそうです。
ここでは羽柴の苗字を与えられた主な者たち(一族を除く)を見ておきましょう。
結城秀康・蒲生氏郷・細川忠興・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・佐々成政・上杉景勝・小早川隆景・毛利輝元・島津義弘・長宗我部元親・島津義久・佐竹義宣・伊達政宗・織田秀信・最上義光・徳川家康・小早川秀秋・徳川秀忠・毛利秀元・福島正則……等々。
※順不同。諸説あり
やがて豊臣政権が崩壊するとほとんど使われなくなったようですが、日本全国を羽柴一族で統一し、我が世を磐石のものとしたかったのかも知れません。
終わりに
今回は秀吉が名乗った羽柴の苗字について紹介してきました。
果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、どのような経緯で秀吉が羽柴を名乗り、また小一郎も使うようになるのか、興味深いところです。
今後ますます増長もとい立身出世していく豊臣兄弟の姿を、見守っていきましょう!
※参考文献:
黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』角川選書、2025年5月
黒田基樹 編『織豊大名の研究13 羽柴秀吉一門』戎光祥出版、2024年11月
柴裕之 編『シリーズ・織豊大名の研究 14豊臣秀長』戎光祥出版、2024年11月
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部

























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