ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769年8月15日 – 1821年5月5日)
中世においてナポレオン率いるフランスはその圧倒的な戦争の強さによりヨーロッパの大半を支配下においた。
1811年時点の最大勢力図
フランス帝国衛星国同盟国
その戦争の強さは異常なレベルで、記録に残っている戦歴だけでも38勝3敗。勝率はなんと9割超え。
ナポレオンが軍事的天才だった事は間違いないが どうしてナポレオン軍はそこまで強かったのだろうか?
具体的に調べてみた。
軍の質の違い
当時のヨーロッパの各国の王政は兵士をお金で雇っていた。つまり傭兵である。
金目的の兵士なので士気も低く当然死にたくない。王政側もなるべく兵士を減らしたくなかった。なので兵を減らすような無茶な作戦はなるべく避け、戦略や外交などの駆け引きで戦争をする事が多かった。実際に一人も兵が戦死しない戦争もあったようである。
そんな時にフランスではフランス革命が起き、フランス軍は王政の支配から脱する国民革命軍であった。なので士気がとても高く徴兵制であったのでいくらでも兵士を動員できた。一人一人の士気が高い無尽蔵の大軍というわけである。
つまり兵の質も人数もまるで違ったというわけである。
元々の国の土台
フランスは産業革命の初期段階で武器の生産能力がヨーロッパですでに第2位であった。さらには元々フランスは陸軍が強く人口もロシアについで2位。
元々の国の土台も良かったというわけである。
国内外問わず民衆に人気
ナポレオンは自由と平等を掲げる革命軍というプロバガンダで戦争を行っていたので、当時王政支配に苦しんでいた民衆から国内外問わず歓迎された。
国の封建制度をナポレオンが打ち破ってくれる事を民衆は願っていたわけである。
有名なところではあの誰もが知る作曲家ベートーヴェン
当時オーストリアのウィーンで暮らしていたベートーヴェンは、ナポレオンに早くウィーンを占領してもらいたいと願うほどナポレオンに心酔しており、「ボナパルト」という交響曲も作ったほどである。
敵地の民衆から好意的であれば食料の現地調達も容易であろうし武器や弾薬も同様である。兵站が素早く軽装で済む事が戦争にどれだけ有利な事かは計り知れない 。
優秀な部下たち
ナポレオンばかりに注目が行きがちであるが、部下も相当優秀な人材が集まっていた。もちろん上記における環境があったからこそその能力を発揮できたフシはあるが、代表的な配下達を紹介する。
ルイ=ニコラ・ダヴー
(1770~1823)Louis-Nicolas Davout
若ハゲである。
軍事面で「不敗のダヴー」と呼ばれるほど優秀で自軍の倍以上の敵を何度も粉砕。ダヴーが率いた軍はなんと生涯全戦全勝。
同じ兵力を率いらせたらナポレオンよりも強かったのではないかと言われるほどである。
若い頃から指揮官として優秀で性格は頑固者。裏切りを図る上官を砲撃したり、逮捕しようと自ら司令部に乗り込んだりしていたらしい。
ライプツィヒの戦いではナポレオンの主力軍が敗北し、ダヴーとその軍団は孤立しつつも一年以上にわたって敵のまっただ中で粘り通す。
彼が開城し、降伏したのはナポレオンの退位のさらに一ヶ月後だったという。
他に行政・管理能力でも優秀であった。
アンドレ・マッセナ
(André Masséna、(Andrea Massena)1758年5月6日 – 1817年4月4日)
軍事指揮官としては非常に優秀な人物であり、特に機動戦を得意とした。
マッセナをナポレオン麾下の元帥の中で最優秀と評価する歴史家もいるほどである。ナポレオンも彼の能力を高く評価しており、「勝利の女神の申し子」とまで呼んでいた。一時軍務を離れていたマッセナを即位後直ちに元帥に復帰させた事はその表れといえる。長い軍歴の中でもほとんど負傷をしなかったという。
半島戦争で敵となったイギリスのウェリントンも、マッセナの後任司令官となったスールトと比較し、マッセナの力量の方が上であると評価している。
マッセナは独占欲が強く、貪欲な人柄であったとされている。また、戦場に男装させた愛人を連れて歩くほどの女好きでもあった。
ジャン・ランヌ
(Jean Lannes, 1769年4月10日 – 1809年5月31日)
「フランスのアイアース」と呼ばれた伝説的な勇者として知られる
皇帝ナポレオンからも個人的な友情を得て、唯一「君」と呼ぶことを許可されていた。
指揮官としては人間離れした勇気と負傷をものともしない不屈の闘志が身上だったが、単なる猛将ではなく、経験を積むごとに戦術に熟達していった。前衛を率いての攻勢を得意とするだけでなく、多数の敵を引き受けての粘り強い防御も巧みにこなし、特に歩兵・騎兵・砲兵を連携させた指揮振りは他の追随を許さないものがあった。ナポレオンの指示を独自に解釈して行動することができる数少ない元帥の一人でもあり、将兵たちからも非常に人気があった。
彼が死んだ時、ナポレオンは次のように嘆いたという。 「フランスにとっても、私にとっても、これほどの損失があるだろうか!」
ミシェル・ネイ
(フランス語: Michel Ney、1769年1月10日 – 1815年12月7日
ナポレオン自身に次いで将兵に人気のあった指揮官で、不屈の闘志と人間離れした勇気で名高い国民的英雄だった。
人となりは実直で努力家、同僚の多くと違って世俗的欲求にも恬淡としており、気前もよく部下達を物心両面で援助する事を惜しまなかった。
ナポレオンが一時失脚した王政復古後はルイ18世に忠誠を誓い、ナポレオンがエルバ島を脱出した際「ナポレオンを鉄の檻に入れて、引っ立てて来る!」とルイ18世に豪語したが、エルバ島から部下1000人ほどを引き連れフランスに上陸したナポレオン達に遭遇するや、速攻で寝返る男気っぷりも見せている(笑)
指揮官としては特に粘り強さを身上としており、防御退却戦で後衛を率いて数々の伝説的武勲を挙げた。ロシアからの退却戦では自ら銃を取って、ロシア兵と戦った。攻撃においても個人的勇気と敢闘精神に富んでいたが、大軍を組織的に運用する事は不得手で戦略的な視野は持たなかったが、残された命令書などは非常に簡潔明瞭に纏められており、部隊の統率者としては熟達していたようである
ワーテルローの戦い後、ナポレオンの百日天下は終わり、ネイはリュクサンブール庭園近郊のグルネル平原で銃殺されたが、このとき目隠しを薦められると「君は私が20年以上も前から銃弾を直視してきたことを知らないのか?」と言い返している。なお、銃殺された場所には彼の銅像が立てられており、現在も献花が絶えないという。 最期の言葉は、
「兵士諸君、これが最後の命令だ。私が号令を発したらまっすぐ心臓を狙って撃て。私はこの不当な判決に抗議する。私はフランスのために百度戦ったが、一度として祖国に逆らったことはない」
であった。
ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト
(Nicolas-Jean de Dieu Soult, 1769年3月29日 – 1851年11月26日
フランスの長い歴史上6人しかいないフランス大元帥の1人。後に政治家になる。
ナポレオン麾下でも指折りの優秀な将軍であり、特に機動戦に優れた野戦指揮官だった。しかし戦略的視野には欠け、また組織を管理統率する手腕にも問題があった。冷静沈着だが冷酷なまでに非情な人物でもあり、大変な俗物で地位、名声、金銭など非常に貪欲だった。
スペイン戦線での略奪、虐殺は後々まで語りぐさとなっており、ウェリントンも「スールトはマッセナ以下である」と断じている。しかしながら結局ナポレオンの麾下で最も功成り名を遂げたのは、スウェーデン王(カール14世ヨハン)となったベルナドットを除けば彼である。
ビスマルクは「スールトは私の母親の愛人で、300人委員会のメンバーであったスールトのおかげで私はドイツ内で偉大になれた」という発言を遺している。
ジョアシャン・ミュラ=ジョルディ
(仏: Joachim Murat-Jordy, 1767年3月25日 – 1815年10月13日)
「世界最高の騎兵」と呼ばれたヨーロッパでは伝説的な騎兵指揮官。
自らを中世の騎士になぞらえ、そのサーベルには座右の銘「名誉と貴婦人の為に」を刻み、女性からの賛美の視線を何よりの喜びとした稀代の伊達男
恐らく同時代に類を見ないほど優秀な騎兵指揮官であり、ナポレオンの戦いには欠かせない貴重な戦力だった。素晴らしい騎手にしてサーベルを扱わせれば天下無双、勇気胆力全く欠ける所が無く、どんな乱戦にも真っ先に飛び込み平然と生還する勇者でもあった。長身で威風堂々とし、甘いマスクと気の利いた弁舌を備えた大変な伊達男で、自らデザインした派手な軍服に身を包み戦場を疾駆するその姿は、敵味方問わず感嘆の的だった。
しかし馬を降りれば優柔不断で軽薄で浅はかであり、大軍を指揮する能力も戦略眼も政治外交能力も無かった。ナポレオンはこう評している。
「彼は敵と対峙したときは世界でもっとも勇敢な男だろうが、会議の席にでも置こうものなら判断力も決断力もない腑抜けに成り下がってしまうだろう。」
「彼に授けられた尋常ならざる勇気は、その知性と非常に不釣り合いで、とても一人の人間の中に収まっているとは思えなかった。」
ナポレオンの妹のカロリーヌと結婚し、一時期はナポリ王にまで出世する。1812年、ロシア遠征に参加するが、これが大敗に終わると自らの地位保全のために敵国イギリスやオーストリアと勝手に交渉を始め、1814年に至り完全にフランスから離反。イタリア統一を夢想し始めるが、そんな野望が通る筈もなく、ウィーン会議では王位の剥奪が決定された。
ミュラはひとたび裏切ったナポレオンの元に戻ることを決意し、イタリア方面での抑えを期待したナポレオンもそれを認めた。しかし、ナポレオンがエルバ島を脱出すると、独断でオーストリアと開戦して大敗し、フランスに逃げ戻った。激怒したナポレオンからは仕官を認められず、ワーテルローの戦いの後に僅かな手勢と共にナポリ奪回の兵を挙げて失敗、逮捕の後に処刑された。
ルイ=ガブリエル・スーシェ
(Louis-Gabriel Suchet, 1770年3月2日 – 1826年1月3日)
ナポレオンは、セントヘレナに流刑後、自らの麾下で最も優れた指揮官はという問いに「難しい質問だが、私の見たところそれはスーシェであろう」と答えている。
また、「スーシェが二人いれば、ナポレオンはスペインを平定し保持できただろう」との評もある。世渡りが下手だったこともあって昇進は遅かったが、戦術指揮官としてその力量はダヴーやマッセナと同等、組織の管理者や統率者、民政家としては同僚に比肩しうる者が無い程の手腕を持っていた。
人によっては、ナポレオンの元帥中最優秀と評価することもある。人柄も穏やかで兵士からも慕われ(士官には厳しかったという)、ナポレオンの方がその力量を発揮させてやることが出来なかったとさえ言うことができるかも知れない。
優秀な部下たちは他にもベシエール、ベルティエ、ドゼー、ジョミニ、サン=シール、ジェラール・・とまだまだいるが、きりがないので特に有名な人物をあげてみた。ナポレオン自体がものすごく優秀な人間であった事は間違いないが、部下の元帥や将軍たちにもこうした優秀な人間が集まっていたわけである。
ナポレオン個人の天才っぷり
戦術や戦略などの天才っぷりはもちろんだが、ナポレオンはそれ以外にも政治や外交、人間的魅力、全てにおいて万遍なく能力が高かった。
ナポレオンはコルシカ島の古い貴族の一介の砲兵士官から始まり、戦地に行けば連戦連勝。次々と戦功を挙げ出世街道を驀進し、将兵や民衆から絶大な人気を得て若くしてカリスマ的存在になり、そのままクーデターを起こし統領政府を樹立。その後国民投票により圧倒的多数の賛同を得て、わずか35才で皇帝の座に即位。
何がすごいって、強奪というよりきちんと功績をあげ出世し、将兵や民衆からの圧倒的な人気で国のトップ、皇帝まで担ぎ上げられた事だ。
この若さでこの偉業っぷり。秀吉や曹操よりすごいかもしれない。
ローマ法王よりきちんと戴冠された事により、他国の王族も認めざるを得ない正式な皇帝となったのである。2度の没落時に処刑や暗殺されず島流しですんだのも、きちんとした皇帝と認められていたからである。皇帝を殺したとなると他の王族にとっても悪しき前例となるので、うかつなマネはできなかったわけである。
後世の影響
後世の影響もすさまじい。ナポレオンが作った「ナポレオン法典」は近代的法典の基礎とされ、修正を加えながらオランダ・ポルトガルや日本などの民法に影響を与えている。フランスにおいては現在に至るまでナポレオン法典が現行法である。アメリカ合衆国ルイジアナ州の現行民法もナポレオン法典である。
誰もが知るフランスの「ルーヴル美術館」もナポレオンが創設した。
※ルーヴル美術館のNの文字はナポレオンのNである
エジプト遠征においてはナポレオン軍によりロゼッタ・ストーンを発見され、同じくフランスのシャンポリオンにより解読され、エジプト史ならびに古代人類史の解明にも大きく貢献する形となった。ナポレオンは解読前のシャンポリオンとも面会し激励もしている。
※ロゼッタストーンはギリシア文字も刻印されていた為、長年謎だったエジプトの象形文字「ヒエログリフ」解読の大きな鍵となった
ナポレオンは戦争だけでなく、政治、法律、歴史、文化、芸術と全てに貢献した1000年に一人の英雄といっても過言ではないだろう。
ナポレオンの強さは 現象として捉えると、存在そのものが世界精神だったのかも知れない。
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フランス革命の血み泥の内戦の中から生き残りのし上がって来たツワモノ供だから
本マに強かったんだろぅなぁー;家柄とか血縁、胡麻すり、犬の様な忠誠心で出世
した相手側が勝てる訳ないよなぁ;でも所詮は武闘派、戦いに生き戦いに死すか;
ナポレオンの軍隊は本当に強かったそうですね。
フランス🇫🇷軍の軍服って小粋でお洒落です。
ナポレオン軍の軍隊は本当に強かったそうなのよ🤩
フランス🇫🇷軍の軍服ってお洒落でelegantだわ。