はじめに
丸に十字の家紋として知られる薩摩国の島津氏は鎌倉時代から江戸時代の薩摩藩まで約700年にわたって同じ国を統治したことで知られている。
前回は鎌倉時代に薩摩国の守護職に任命されてから室町時代中期の応仁の乱までの変遷について取り上げた。具体的には、応仁の乱には直接参加しなかったが、焼け野原になった京都から学者の桂庵玄樹を呼び寄せて、薩南学派という学問を起こすところまでの島津氏について取り上げた。
今回は大隅国の種子島に鉄砲が伝えられた頃から関ヶ原の戦いまでの戦国大名としての島津氏について取り上げる。
幕末の薩摩藩と同様、戦国時代の島津氏は多くの歴史ファンの間で人気があると言われている。具体的には、島津氏が有名になった戦いを中心に取り上げて九州を代表する戦国大名になるまでの過程を取り上げたい。
鉄砲伝来と島津氏
※島津貴久像(尚古集成館蔵)
1540年代には島津氏の当主は15代目島津貴久になった。
貴久の代になると、薩摩の支配を確立するだけでなく、大隅国を制圧することにも成功した。1543年には大隅国の種子島に鉄砲が伝えられた。また、1549年にフランシスコ=ザビエルが鹿児島でキリスト教の布教を始めた。
島津氏は15代目貴久の後、16代目島津義久が後を継ぐと、室町時代に奪われた日向国と肥後国を取り戻すことに成功した。鉄砲伝来は島津氏が九州を代表する戦国大名として台頭するきっかけになったと言われている。また、当時の全国の戦国時代の戦い方が今川義元や織田信長に代表されるように大幅に変えたことでも知られている。
戦国時代と関ヶ原以降の島津氏の戦い
ここでは戦国大名島津氏の主な戦いについて取り上げたい。
まず、1578年に日向国(現在の宮崎県)で起こった耳川の戦いである。キリシタン大名で知られる大友義鎮(宗麟)がキリスト教の聖地を作るために起こした戦いであると言われている。
※大友宗麟像(瑞峯院所蔵)
耳川の戦いの舞台になったところではキリスト教に由来する地名が今でも残っていると言われている。この戦いで島津氏は圧勝し、大友氏は重臣や多くの兵力を失った。
次に、1584年の肥後国(現在の熊本県)で起こった沖田畷の戦いについて取り上げる。この戦いでは、島津氏はわずか3000の兵で25000もの兵を率いた龍造寺氏の大軍を打ち破ったことで知られている。この後、龍造寺氏は下剋上で倒れ、肥前国の大名は鍋島氏になった。
戦国大名の島津氏は朝鮮出兵で兵を送ったことがある。朝鮮出兵では、島津義弘が慶長の役でたった7000の兵で、20万もの明と朝鮮の連合軍を打ち破った。この島津氏の戦いについては朝鮮と明の史料にも残っている。
※島津義弘像(尚古集成館蔵)武勇の誉れ高く「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった
関ヶ原の戦いでは西軍の石田三成についた。戦いの当初は西軍が有利に進めたが、西軍の武将が東軍に寝返ったことにより、西軍が敗北したことが確定した。石田三成が逃走したことにより、島津氏は東軍に包囲され、退却することができなくなった。
退却する際、徳川家康の本陣をめがけて正面突破して大坂に逃走し、薩摩に帰ったことが今でも語り継がれている。退却する際、東軍の徳川家康の家臣であった井伊直政が負傷し、その傷が原因で数年後に死亡した。
徳川家康は関ヶ原の戦いで大勝してから江戸幕府を開いたが、関ケ原の戦い後、西軍についた大名の中には毛利氏のように大幅に石高を減らされたり、長宗我部氏や宇喜多氏などのように土地を取り上げられたりしたが、島津氏については何も処分を受けなかった。
関ヶ原の戦い前後で徳川家康に従った外様大名が取り潰されたが、その中で島津家久は1609年に琉球王国を攻撃して服属させることに成功した。当時、島津氏を取り潰さなかったことについては、これまでの戦いや関ヶ原の戦いでの正面突破が要因となっているのではないかと言われている。徳川家康が島津氏の戦いを見て、取り潰した時の反動を恐れて琉球王国を服属させたことを黙認したと考えられる。
おわりに
今回は鉄砲伝来から関ヶ原の戦い後までの島津氏について取り上げた。
戦国時代の島津氏についてはテレビゲームで取り上げられるなど多くの歴史のファンの間で人気がある。人気がある要因として、わずかな兵で多くの戦いに勝ってきたことが挙げられる。次回は、戦国時代と同様に、多くの歴史ファンに人気がある幕末の薩摩藩と島津氏について取り上げたい。
幕末の薩摩藩と島津氏
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