徳川家斉(いえなり)は1773年に徳川(一橋)治斉の子として生まれた。
10代将軍徳川家治の長男が急死したことに伴い、家治の養子となり、後に11代将軍になった。江戸幕府15代の将軍の中で最初に御三卿の一つである一橋家より将軍になった人物である。
将軍になってからの徳川家斉について、老中松平定信による寛政の改革の時期と松平定信失脚後の徳川家斉の2つに分けて取り上げたい。この記事では、松平定信による寛政の改革とその結果を中心に取り上げる。
田沼意次が老中であったときからロシアが日本に接近するようになった。この記事の後半ではロシアの動きと蝦夷地探検について取り上げる。
松平定信による寛政の改革
※松平定信自画像
松平定信は白河藩藩主で、8代将軍徳川吉宗の孫で、御三卿の田安宗武の7男にあたる。松平定信が老中になる前は、商業を中心とした田沼意次の政治が行われていた。田沼意次の政治については商業を重視したことにより営業税の増収など効果はあったが、賄賂が横行するなど政治が乱れていた。松平定信は田沼政治で乱れた政治を正すために引き締めを図るための改革を行う。
この松平定信による政治改革を寛政の改革という。
寛政の改革の具体的な内容を取り上げたい。
・米の備蓄
松平定信が老中に就任する前、浅間山が噴火したことで農産物が不作であったことから飢饉が発生した。この飢饉を天明の大飢饉という。飢饉に備えて囲米という制度を始めた。囲米とは米を倉庫に備蓄することで、諸藩に対して1万石につき50石を備蓄するように命令した。
・農民の流入の阻止
天明の大飢饉が発生したころ、農民は農村を捨てて仕事を求めて江戸に流入していた。流入した農民で問題になっていたことから、松平定信は旧里帰農令を出して、農民に一時金を渡して農村に帰そうとした。
・犯罪者の更生施設
犯罪者には石川島に更生するための施設を作った。手に職をつけてから社会復帰させることによって犯罪を減らそうとした。この更生施設のことを人足寄場と呼び、現在の刑務所の原点になったと言われている。
・借金の帳消し
寛政の改革の当時、御家人・旗本が札差(米を現金に換える金融機関)からの借金で生活が苦しくなっていた。1789年に救済する目的で借金を帳消しにする棄捐令(きえんれい)を出した。
・学問や出版の統制
松平定信は学問についても統制している。幕府の学問所である昌平坂学問所において朱子学以外の講義を禁止した。この講義の禁止を寛政異学の禁という。このころ、柴野栗山・尾藤二洲・岡田寒泉(後、古賀精里)の3人の朱子学者が寛政の三博士と呼ばれた。
出版統制も行っている。出版統制の対象は風俗を乱す洒落本・好色物・政治批判・社会風刺に関するもので、これらの本の出版を禁止するとともに作者を処罰した。
寛政の改革の頃の蝦夷地探検
※wiki フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト『日本』第1巻(1826)より最上徳内。絵師は川原慶賀
蝦夷地の探検について、田沼政治の頃に蝦夷地の開発のために最上徳内を派遣して千島列島の探検をしていた。
田沼意次が失脚してから蝦夷地探検が中断していたが、ロシアの船が幕府との通商を要求するために根室に来航した。このとき、伊勢の商人で漂流していた大黒屋光太夫がロシアに保護され、ロシア軍人のラックスマンが大黒屋光太夫を送還しに来たのである。ラックスマンの来航を機に蝦夷地探検が再開されることになる。
※大黒屋光太夫と磯吉
松平定信は近藤重蔵に択捉島を探検させた。伊能忠敬には蝦夷地を測量させて正確な地図を作成させた。松平定信が失脚後も蝦夷地の探検が行われる。
寛政の改革の結果
松平定信による寛政の改革は、質素倹約を奨励したが、田沼時代と比べるとかなり厳しい内容であり、人々から反発が起こっていた。
反発が起こったことから松平定信は失脚し、寛政の改革は行き詰まり失敗に終わった。
寛政の改革後、11代将軍徳川家斉による大御所政治が始まる。
徳川15将軍シリーズ:
徳川家康【江戸幕府初代将軍】の生涯
徳川秀忠【徳川2代目将軍】―意外に実力者だった
徳川家光【徳川3代目将軍】―幕藩体制確立を目指して
徳川家綱【徳川4代目将軍】―武断政治から文治政治への転換
徳川綱吉【徳川5代目将軍】ー学問を奨励と生類憐みの令
徳川家宣・徳川家継【徳川6、7代目将軍】ー新井白石による政治改革
徳川吉宗【徳川8代目将軍】ー享保の改革
徳川家重〜家治【德川9〜10代目将軍】と田沼意次の政治
徳川家斉【徳川11代目将軍】松平忠信による寛政の改革
寛政の改革後の徳川家斉【化政文化】
この記事へのコメントはありません。