安土桃山時代

上杉景勝と関ケ原の戦い後の上杉氏

上杉謙信が1578年に急死した。何も跡継ぎのことを言わずに死亡したため、養子2人の間で後継者争いが起こった。

上杉景勝上杉景虎の後継者争いのことを御館の乱という。御館の乱で上杉景勝は勝利し、上杉謙信の跡を継ぐことになる。

この乱については負の側面が残っている。この内乱で上杉氏の軍事力が落ちていたため、越中や信濃から織田軍、北関東から北条軍、東北からも攻められるなど崩壊する一歩手前まで追い詰められたが、本能寺の変により難を逃れた。織田信長の後、豊臣秀吉が政権を握るが、上杉景勝は早めに従うことを決意した。

ここでは豊臣氏に従った上杉景勝と関ケ原の戦いで負けた後の上杉氏について取り上げる。

豊臣家の五大老になった上杉景勝

上杉景勝と関ケ原の戦い後の上杉氏

※上杉景勝像(上杉神社蔵)※wikiより

上杉景勝豊臣秀吉と同盟を結ぶことで、領国の拡大に成功した。領国は越後国だけしかなかったが、出羽国にも領国を広げている。

その後、北陸の雄として戦国大名の中で注目されるようになる。上杉景勝は豊臣秀吉からの信頼が厚かったと言われ、五大老の一人として指名されるとともに、1598年には越後から会津若松120万石に転封されている。

豊臣秀吉は晩年、幼い豊臣秀頼を補佐するための政治体制を定めた。その政治体制を五奉行・五大老という。

五奉行とは公家・寺社、財政、検地など政務を担当した5人のことを指す。その5人とは浅野長政・増田長盛・石田三成・前田玄以・長束正家である。
五大老とは豊臣政権で五奉行の上にある職名で、前田利家・毛利輝元・小早川隆景・宇喜多秀家・徳川家康・上杉景勝が任命された。6人の有力大名が任命されているが、小早川隆景が死亡したことにより五大老と呼ばれた。五大老の筆頭は徳川家康である。

直江兼続と直江状

※直江兼続の肖像画 wikiより

豊臣秀吉の死後、五大老の筆頭である徳川家康が豊臣政権の実権を握るようになる。1600年に上杉景勝は徳川家康に会津で謀反の疑いをかけられた。

この謀反の疑いに対して、景勝の家臣直江兼続は家康に「攻めてこられるならば、上杉の名にかけて、お相手いたしましょう」という有名な直江状と呼ばれる挑戦状を送りつけた。

これを受けて徳川家康は会津に向けて兵を動かした。そして会津で徳川家康が戦っている隙に石田三成が関ヶ原で兵を挙げた。これが関ケ原の戦いである。
関ケ原の戦いの結果、徳川家康が率いる東軍の勝利で終わり西軍に東軍へ寝返る武将が相次いだ。

小早川秀秋の裏切りが東軍勝利の決め手になったと言われている。一方で、上杉景勝は東北地方で戦っていたが、関ケ原の戦いで西軍が負けたという知らせが入ると、直江兼続を殿にして退却した。

関ケ原の戦い後の上杉氏

関ケ原の戦い後、上杉氏は会津若松120万石から米沢30万石に減らされた。以降、徳川家康に従い、1615年の大坂の陣では徳川方について戦っている。
大幅に収入が減らされると、リストラによる人員整理が必要不可欠となるが、兼続はリストラをせずに雇い続けたと言われている。
景勝は30万石のうち6万石を直江兼続に与えたと言われている。この6万石については、直江兼続に後を継ぐ人がいなかったため、後に断絶となっている。

この断絶は「上杉家の減移封を自身が招いた責任を感じていたため」「直江家の知行を返上することで上杉家の財政を助けるため」など兼続が意図的に起こしたという説もある。

※上杉鷹山 wikiより

米沢藩の財政状況は苦しい状態が続き、9代目藩主上杉治憲(鷹山)は財政を立て直すために改革を行った。

まず、大倹約令を発して支出を抑えようとした。治憲が藩主の頃に天明の大飢饉が起こった。このときは粥を食べていたと言われている。

上杉治憲は殖産興業を興し、米沢織という特産品の生産・販売を始めた。

教育にも力を入れて、藩校の興譲館が財政難で閉校していたが、細井平洲という学者を招いて興譲館を再度開校させた。興譲館では身分に関係なく学ぶことができたと言われている。

関連記事:
【直江状の真相】なぜ上杉景勝は徳川家康と対立したのか
上杉鷹山について調べてみた【米沢の名君】
直江兼続の才能について調べてみた【上杉景勝の重臣】

アバター

officehiguchi

投稿者の記事一覧

主に戦国時代を中心とした広範囲な知識の記述が得意

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 後藤又兵衛 ~多くの大名が破格の待遇で欲しがった猛将
  2. 江戸城での最初の刃傷事件 「豊島明重事件」
  3. 【花魁から夜鷹まで】 春を売った女性たちの値段はいくらだったのか…
  4. 天下無双の算術・長束正家「秀吉が強引に家臣にした天才」
  5. 実は築城の名手だった明智光秀 【坂本城、亀山城、福知山城】
  6. 日本地図を作った男・伊能忠敬 「緯度の誤差は千分の一」
  7. なぜ藤堂高虎は11人もの主君に仕えたのか? 「その理由と主君遍歴…
  8. 聚楽第落首事件 「秀吉批判の落書きで関係ない町民まで皆殺し」豊臣…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

【ナチス・ドイツ狂気の全貌】ホロコーストについて調べてみた

ホロコーストとは=ナチスドイツがユダヤ人達に組織的に行った大量惨殺の事である。ナチス…

「死の魔術」が行われていた冥界への入口がエルサレムの洞窟で発見される

ローマ帝国時代の異教徒たちが行っていた降霊術の証拠エルサレム近郊のテオミム洞窟の岩の隙間から、1…

小牧・長久手の戦いで討死した山田重則 ~その忠義を永く讃えん…【どうする家康】

戦国時代、海道一の弓取と恐れられ、ついには天下を獲るにいたった徳川家康(とくがわ いえやす)。その覇…

他人を許せない自分を許す 〜うまくいかない人間関係を乗り越える6つのステップ

五月病になる前に人間関係対策をする新学期、新年度がスタートして、多くの人が新たな環境や新しい…

【最強武将】一人の個人として強かった戦国武将は誰なのか?

一人の個人として強かった武将とは誰なのか?「戦国最強の武将」は?と聞かれれば、上杉謙信・武田信玄…

アーカイブ

PAGE TOP