三国志で有名な軍師と言えば、まず諸葛孔明。
詳しい人なら、司馬懿や龐統、荀彧、郭嘉、荀攸、賈詡、法正、…など魅力的な軍師が多くいるのはご存知だろう。
そこで今回は、前回に引き続き袁紹軍にスポットをあてて、袁紹の軍師であった沮授(そじゅ)について詳しく解説する。
どちらかというと今までの漫画やゲームの世界観では、袁紹配下では田豊が結構優秀で沮授はいまいちな扱いが多いが、「正史」を読むと沮授の記述がとても多く、かなり優秀だったようだ。
沮授や田豊は他の三国の有名軍師たちに比べるとマイナーであるが、後世の歴史家の孫盛はこう評している。
「田豊と沮授の計略は張良と陳平(漢の創始者、劉邦の軍師)といえども、どうしてこれに勝ることがあろうか」
目次
沮授の出自と袁紹に仕えるまで
沮授(そじゅ)は広平(中国河北省の南付近)出身で、若い頃から大志を抱きなかなかの策略家であったと「献帝紀」にある。
出仕して州の別駕(べつが )となった。別駕とは刺史(州の長官)の巡察に随行する官のことで、花形の役人である。その後茂才(官僚登用試験)に推挙され、2県の県令となる。そして、当時冀州の刺史だった韓馥(かんぷく)の別駕となり、騎都尉に任命される。
その後、袁紹が韓馥から冀州を譲り受けると(詳しくはこちら)袁紹は沮授を招聘した。沮授が袁紹に仕えるようになった経緯はこんなところである。
袁家の後の混乱を予測していた
沮授はポイントポイントで大きな献策をしている。
献帝が即位した後、しばらくして袁紹は北の公孫瓚を撃破し、その軍勢を自軍に併合した。その勢いで河北4州を制した袁紹は、各州を息子たちに治めさせようとする。まずは長男の袁譚(えんたん)に青州を治めさようとした時に、沮授は猛反発をした。
沮授は袁紹を諌めて
「必ずや禍(わざわい)の始まりとなるでしょう」
しかし袁紹は聞き入れず
「私は息子たちにそれぞれ一州を支配させたいのだ」 ※正史より引用
そして幽州を次男の袁煕(えんき)、甥の高幹に幷州(へいしゅう)を治めさせた。
結果的に袁紹の死後、まさにこの袁譚が大きな禍となり、袁紹の後継者となった同母弟の袁尚(えんしょう)と壮絶な相続争いを繰り広げた。袁家は2つに分かれて力を弱め、その後、曹操にそれぞれ撃破されることとなる。まさに沮授の懸念していたとおりの形となったのである。
ちなみに献帝が即位した時に、袁紹に天子を迎えるように進言したのも沮授であると「献帝伝」に記述があるが、陳寿の「正史」ではこれは郭図(かくと)の進言となっており、正史との食い違いを、裴松之(はいしょうし : 正史に注釈をつけた歴史家)は指摘している。
袁紹の「許」攻略にも反対していた沮授
河北を統一した袁紹は、圧倒的な物資と兵力を持ち、曹操の本拠地である「許」を攻撃しようと南下を始めるが、これに沮授と田豊は猛反対する。
沮授と田豊の意見は簡単に言えば、
曹操陣営は物資も兵士も足らない上に周りは敵だらけなので、こちらはわざわざ勝負を挑まなくとも内政や軍備を充実させていくだけで、3年も経てば自然と勝負は決している
という少し時間はかかるが、安全かつ確実な策であった。
これに対し、審配(しんぱい)と郭図(かくと)は
今、曹操を始末するのは簡単なこと。もし後になって攻略が困難になったら大変なことである
と、兵法の一部を例に出して、短期決戦を主張した。
これに対し沮授は、曹操が天子を擁していることを問題とし
今、曹操を攻撃することは道義に反しており、いかに大軍であろうと義兵でない限りは力を持たない
曹操は兵法に通じ軍も精強で、公孫瓚とはわけが違う。絶対安全な方法を捨てて、名分を持たない戦いを挑むことは危惧すべきことである
と、反論する。
これに対して郭図らは
かつて周の武王が、主君である殷の紂王を征伐したが、これは道義に外れるとは言わない
沮授の計略はただ安全を保持しようという考えで、時の動きを見た臨機応変な計略ではない
と、過去の例を持ち出し反論。確かに郭図らの意見も筋は通っている。
最終的に決断するのは袁紹であるわけだが、袁紹は郭図らの献策を採用した。その後、袁紹軍は官渡の戦いで曹操軍に大敗を喫することとなる。
沮授は政治と軍事、両方を統括していた
沮授はそれまで袁紹軍の政治面と軍事面の実質的トップであり、その権威は全軍にとどろいていた。
しかし前述した袁紹が郭図らの意見を採用した時に、郭図はチャンスだと思い、袁紹に沮授をそしる陰言をした。
沮授は内外で力を持ちすぎています。もし今後さらに力をつけてきた場合、どうやって制圧するのですか?
主君と臣下の権限が同等近い国は、必ず滅亡します
袁紹は疑心暗鬼に陥って、軍を三分割し、沮授、郭図、淳于瓊(じゅんうけい)にそれぞれ一軍を持たせた。
郭図のような出世の為に陰言をするライバルや、それをそのまま鵜呑みにしてしまう主君を持ったことは、沮授にとって不運だったと言える。
ちなみにここまでの郭図と沮授の記述は、裴松之の注による「献帝伝」によるものだが、特に指摘もなくそのまま載せられている。
顔良派遣も止めていた
袁紹軍の大将、顔良と文醜が開戦早々に曹操軍に斬り殺されてしまう有名な場面であるが、沮授は顔良を向かわせることに最初から反対していた。
「顔良は性格がこせこせしており、武勇に優れているものの、彼ひとりにまかせてはおけません」
しかし袁紹は聞き入れなかった ※正史より引用
漫画「蒼天航路」でも当時曹操に降っていた関羽に、一合で斬り殺されてしまうシーンが印象的であるが、「正史」でも序盤に斬り殺された記述があり、沮授の懸念はここでもまた当たっていた。
袁紹の南下にも反対
顔良と文醜という両看板をいきなり失ってしまった袁紹軍は大恐慌に陥るが、袁紹はそのまま南下を続行。ここでも沮授は引き返すべきと進言する。
「蒼天航路」では田豊が南下しようとする袁紹を命がけで諌めるシーンが描かれており、沮授は王の風格をまとって調子にのりまくっている袁紹に心酔しきって逆に田豊を諌めるというちょっとマヌケな描かれ方をしていたが、
蒼天航路の沮授(袁紹の軍師)が誰かに似てると思いながら読んでたんですが、スリムクラブの人でした。 pic.twitter.com/O74OekNvc3
— 栗ごはん卿 (@kurigohankyo) 2014年11月13日
「正史」では田豊と同様に沮授も必死に諌めていた。
「我が軍は数は多いですが、勇猛果敢さでは曹操軍に及びません。しかし曹操軍は食料はすっからかんで経済面でも我が軍が優勢です。曹操は短期決戦を望んでおり、長期戦ではこちらが有利です。月日を引き伸ばすのが良策でしょう」
しかしここでも袁紹は聞き入れず、そのまま南下を続行。
いよいよ官渡の戦いに突入することとなる。
「官渡の戦い」でも淳于瓊が襲われることを予測
中国史でも指折りの大きな大戦、曹操と袁紹による官渡の戦いであるが、いやいやながらも参加した沮授は、ここでも一番のポイントで献策していた。
官渡の戦いでの一番の大きなターニングポイントは、袁紹軍の兵糧を烏巣で守っていた淳于瓊(じゅんうけい)が襲われてしまったことである。ここで兵糧を奪われてしまった袁紹軍は一気に総崩れし、将軍たちは次から次へと曹操に寝返り(張郃、高覧)、袁紹と袁譚はただ一騎となって逃げ黄河を渡った。
まさに大敗北である。
沮授はこれも予測していて、淳于瓊が烏巣に向かう前に
「別に将軍、蒋奇(しょうき)を派遣し、別隊として外側に送らせ、曹公の略奪を断つべきです」 ※正史より引用
と、まさにドンピシャの進言をしていたが、これも袁紹に聞き入れられなかった。
ここまでくるともう、かわいそうになってくるレベルである。
曹操とも昔なじみであった沮授
官渡の戦いで捕虜になった沮授を曹操は温かく迎え入れた。
そこで曹操は
「別々の世界に住み、ついに音信不通となっていたが、今日君を捕虜にすることになろうとは思いもよらなかった」
「袁紹は智謀に欠け、君の計略を用いなかった。今、動乱が起こって12年以上にもなるのに、国家はまだ安定していない。いっしょにそれを行いたいものだ」 ※献帝伝より引用
と最大限の歓迎をした。
しかし沮授は、叔父も母も弟も袁氏にお世話になっていて生命を託していることを理由に、「早く死なせてください。それが幸福というものです」と懇願する。
曹操は最後に
「私が、もっと早く君を味方にしていたら、天下は考慮の余地もないほど簡単だったのに」 ※献帝伝
と嘆いたという。
その後、沮授は曹操に厚遇されたあとに、袁紹の元に戻ろうと計るも捕えられて殺害されたと「正史」に記述がある。
もし袁紹が沮授の言うことを聞いていれば、歴史は大きく変わっていたかもしれない。
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