南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)
今ではNHKの大河ドラマの主役ともなっている西郷隆盛ですが、1877年(明治10年)の西南戦争の後しばらくの間は明治新政府に弓を引いたことから、それまでの官位を剥奪され「逆族」とされていました。
ようやく1889年(明治22年)2月に大日本帝国憲法が公布され、名誉が回復されることとなり、上野公園に銅像などが建立されたのです。
そうした再評価の中で、西郷の言葉・教えを遺訓として収集・編纂したものが「南洲翁遺訓」です。
第三ケ条・政治について
「南洲翁遺訓」には遺訓が四十一条あります。
ここではその第三ケ条の政治について語られた部分についてご紹介します。内容は現代語に予め置き換えて記載します。
「政治の根幹は国民の教育水準の向上を図り、国の自衛の為に軍備を整え、食料の自給率の安定の為、農業を奨励するという三つである。
その他の様々な事業は、すべてこの三つの政策を補助するための手段である。この三つの物の中で、どれを先に行い、どれを後にするかの優先順位はあるが、この三つの政策を後回しにして、他の政策を先に行うことは決してあってはならない。」
国の基本を教育・防衛・食料自給の3つの点の置き、これを優先しないと国として立ち行かないことを論じています。
今の世においても少しも色あせていない指摘と思われます。
第十一ケ条・文明について
ここではその第十一ケ条の文明について語られた部分についてご紹介します。
「文明とは道義に基づいた行為が行われることを称える言葉であり、宮殿が豪華であったり、衣服が華美であったりといった、外観の華やかさをいうものではない。
しかるに現在の人の言うことを聞くと、何が文明で、何が野蛮なのか理解に苦しむ。これについて自分はある人と議論になった事がある。自分は西洋は野蛮だと言ったところ、その人は西洋は文明だと言い争う。
いや、野蛮だと重ねて言うと、なぜそれほど野蛮だと言うのかと問われたので、もし西洋が本当に文明であるなら、開発途上の国に対しては、慈悲の心を基本として、よく話し合って文明開化へと導びいてしかるべきであるのに、逆に開発途上の国に対するほど、非道で残忍な行為を行い、自らの利益のみを追求うするのは明らかに野蛮であると言ったところ、その人もそれ以上は返答することが出来なかったと、笑いながら話された。」
西郷は、西洋諸国を訪問したことはなかったのですが、明治維新の後このかた。西洋に追いつきたいがためにその文化・文明を妄信した人間が多かった中で、正に慧眼というべき指摘をしていると思われます。
第十八ケ条・政府について
続けて第十八ケ条では政府の在り方について以下のような内容が書かれています。
「国の事に話が及ぶと、大いに嘆いて言われたことは、自国が外国から凌辱を受けるような事があれば、たとえ国が倒れても、正しい道を歩み、道義を尽くすことが政府の努めである。
しかし現実には金銭、穀物、財政のことを議論している場合には、何と勇ましい英雄・豪傑と思われるような人物が、ひとたび実際に血を流す事態に臨むと、ただ目の前の気休めを述べるのみである。
戦という一字を恐れて、政府のなすべき事を疎かにするのであれば、それはもはや商売を統べる機関であって、政府とは言えないものである。」
アメリカによる武力を背景にした砲艦外交で帰国をさせられた日本において、この時代にここまでの信念と覚悟を持ち、金勘定のみの血道を挙げる痛烈な政府批判を語っています。
南洲翁遺訓の編纂のいきさつ
これら「南洲翁遺訓」を編纂したのが、旧出羽庄内藩の人たちであったという点も興味深い部分です。
かつて徳川幕府に与していた出羽庄内藩は、江戸の治安維持を担当していました。
1867年(慶応3年)12月の王政復古の大号令の後、討幕のために、西郷は江戸の薩摩藩邸に集めた浪人らを使って幕府を挑発する行為をさせていました。
そのため浪人らと庄内藩士の争いが激化し、ついには薩摩藩邸が焼き討される事件まで発生しました。
更にその後の戊辰戦争でも、西郷ら官軍側と槍を交えた旧出羽庄内藩内では、厳しい扱いを受けることを半ば覚悟していました。しかし西郷が戦後に寛大な処置をみせたことから、旧庄内藩士達の厚い信望を受けました。
後に西郷が征韓論に敗れて下野した際に、彼らが鹿児島まで出向いて教えを請うた内容をまとめたものが、「南洲翁遺訓」だったのです。
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