奇兵隊と 高杉晋作
高杉晋作(たかすぎしんさく)と言えば、幕末の長州にあって奇兵隊を創設した人物として広くその名を知られた人物です。
しかし、高杉が奇兵隊の責任者である総監を務めた期間は、わずか3ケ月程でした。
印象としては、奇兵隊を率いて数々の戦いに挑みながらも早世した幕末の風雲児と言った感の高杉ですが、第二次長州征伐で幕府軍に対して勝利した結果が、そうした感覚をもたらしているのではないかと思われます。
それ以外にも幕末の長州・日本に足跡を残した高杉について調べてみました。
吉田松陰との出会い
高杉は、天保10年(1839年)に長州藩の上級武士・高杉小忠太(大組・200石)の長男として生まれました。
高杉家は戦国期の毛利元就の時代から仕えた譜代の家臣という名門の家柄でした。嘉永5年(1852年)に14歳になった高杉は藩校・明倫館に入りました。
しかしここでは抜きんでることはなく、安政4年(1857年)に吉田松陰の私塾・松下村塾に学んだことから頭角を現しました。
久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一と並んで松下村塾の四天王とも称されることとなった高杉は、翌安政5年(1858年)には藩の命を受けて江戸へ遊学する機会を得ました。
この翌安政6年(1859年)には、師である松陰が安政の大獄で捕らわれていた、伝馬町の獄を見舞っています。
上海へ渡航
高杉は、万延元年(1860年)11月に藩の命で国元に戻りましたが、この間に師であった松陰は処刑させてしまいます。
その後、高杉は、文久2年(1862年)5月に藩の命を受けて幕府使節随行員となって長崎から中国・上海へと渡航しました。
ここで清が欧米の植民地と化している現状を間近に見て、攘夷の思想を強くしたものと考えられています。
この間に長州では、桂小五郎・久坂玄瑞らの尊王攘夷派が実権を握り、上海から戻った高杉もこれに加わりました。
しかし対立する勢力の暗殺を目論んだことが事前に露見し、謹慎を命じられてしまいました。
それにも関わらず高杉は、同年の12月に品川の御殿山に建設中であった英国公使館の焼き討ちを行います。
この行為が幕府との緊張を高めると恐れた長州藩は、高杉を江戸から呼び戻しました。高杉は松陰の故郷である松本村に移り住み、そこで隠棲しました。
外国との交渉
文久3年(1863年)5月、朝廷が幕府に要請した攘夷期限が経過したことで、長州藩は関門海峡での外国船への砲撃を実施しました。
しかしアメリカ・フランスの軍艦の反撃を受けて敢無く敗北を喫しました。
この下関戦争の敗戦を受け、隠棲していた高杉は、その西洋事情に関する知識を評価されて再び召し出され、下関の守備を担う事となりました。
このとき高杉は、同年の6月に身分に因らない志願制の部隊・奇兵隊を創設しました。
しかし僅か3ケ月後の9月には隊士が起こした刃傷沙汰の責を問われ総監の地位を罷免されました。
翌文久4年(1864年)1月、高杉は脱藩して京へと上ったため謹慎処分を受けました。しかし同年8月にイギリス・フランス・アメリカ・オランダの艦隊が下関を攻撃、これを占拠させると高杉は赦免され、その戦後交渉にあたりました。
高杉はこの交渉において要求された「彦島の租借」を頑として跳ね除け、植民地化を防いだとも伝えられています。
第二次長州征伐と最期
藩の表舞台に復帰したに見えた高杉でしたが、幕府からの第一次長州征伐が近づくと、これに恭順しようとする保守派が主導権を握ったたため、文久4年(1864年)10月に一旦九州へと逃れました。
しかし12月に下関に戻った高杉は、伊藤博文の力士隊、石川小五郎の遊撃隊ら僅か80名足らずの手勢を以て功山寺で挙兵し、保守派を駆逐すると、元治2年(1865年)3月には藩の主導権を握ることに成功しました。
慶応2年(1866年)1月に薩長同盟が締結されると、高杉は同年6月の第二次長州征伐では、長州海軍の総督を務めて幕府艦隊に夜襲を仕掛けて勝利を収め、門司へでも味方を上陸させるなど、陸海で幕府軍を破る働きを見せました。
この勝利が260年余も続いた幕府の終焉のきっかけとなりましたが、高杉自身はそれを見ることはなく、結核の病に倒れて、下関市桜山で慶応3年4月(1867年5月)に享年29でこの世を去りました。
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