日本史について勉強した方、特に幕末の歴史が好きな方で、生麦事件を知らない方はいないであろう。
生麦事件とは、文久2年(1864年)に武蔵国生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)において、薩摩藩の島津久光一行の行列の前を横切ろうとしたイギリス人が薩摩藩の藩士によって切られた事件である。
事件はその後、外交問題に発展し、最終的には薩英戦争にまで発展したことは読者の皆様もご存じのことであろう。
ところで、事件が起きた生麦村は横浜外国人居留地に近かった。開国後、幕府は外国人居留地を横浜、神戸などの開港地に作り、外国人の自由な国内移動を制限し、日本人との間のトラブルが起きないように気を付けていた。しかし、居留地の近くでは、やはり外国人がらみのトラブルが多かったようであった。
実際に横浜居留地近くの歴史を調べてみると、生麦事件と似たような事件に関する記録を確認できた。
今回は、もう一つの「生麦事件」ともいえる鎌倉事件について調べてみた。
鎌倉事件の概要
事件が起きたのは、元治元年(1864年)の鎌倉であった。当時の鎌倉は外国人遊歩区域であった。
これは安政五カ国条約において定められた地域で、外国人居住区の外で、外国人が自由に活動できる地域である。
この事件の被害者であった2人のイギリス人士官は、外国人遊歩区域であった鎌倉に来て、大仏などを回って観光を楽しんでいたようであった。
しかし、鶴岡八幡宮付近の下馬という地域において、2人の武士に切られ、死亡した事件である。
事件の犯人
この事件は横浜外国人居留地に衝撃を与えた。
駐日イギリス公使であったオールコックは、幕府に対して捜査と犯人の処罰を要求、幕府は神奈川奉行所を通じて、捜査を開始、最終的には浪人の蒲地源八、稲葉紺次郎、彼らの首領であった清水清次の3人が捉えられ、処刑された。
犯人の動機
当時幕府が出した吟味書によれば、犯行の動機は、外国人が街を闊歩する様子が不快であったこと、当時の物価高騰の原因が外国人であると考えていたことであるようだ。
一方でこんな話もある。
当時、八幡宮に通じる若宮大路に通じる下馬にさしかかかる際に、馬を下りるように被害者たちが命じられたのに、彼らがそれに従わなかったので、班員たちは切りかかったという話もある。
実は下馬という地名は、馬から降りるという意味があるのだ。
これは八幡宮に近づく際に、馬に乗ったままでいるのは失礼であり、馬から降りなければならなかったからこの地名になったそうだ。
文献の中には、馬から降りるのをイギリス人士官たちはそのルールを破ったために、武士に切られたという説明をしている記事もある。
事件現場の現在
さて、この事件が起きた場所は現在では鎌倉の中心地の一部になっている。
現在では馬を下りる必要がなく、観光客も地元住民も車で通る場所となっている。事件を物語るプレートが鎌倉市によって作られていたが、それ以外は普通の街並みが広がり、凄惨な事件の現場とは思えない場所であった。
昔は殺されたイギリス人士官の霊が出るなどという噂もあったそうだが、現在ではそんな噂も消え、行きかう人々も普通に観光を楽しんでいるようだ。
現在の鎌倉では、外国人も安全に観光を楽しんでいる。しかし、ほんの154年前までは、外国人に反感を持つ人々がいて、観光で来ていた外国人の命が危険にさらされることもあったのだ。鎌倉と言うと、鎌倉幕府や源氏のイメージが強いが、横浜に近かったため、このような幕末の歴史にも関わっているのだ。
余談ではあるが、生麦事件を起こした薩摩藩の島津家の墓が実は鎌倉にある。
これは島津久光が維新後に左大臣になった際に、島津家の墓を作るスペースを確保したのである。鎌倉が幕末・維新の歴史にかかわるのは、鎌倉事件だけではないようだ。
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