名門山内上杉家
上杉憲政(うえすぎのりまさ)は、室町幕府から関東を統べる管領職に任じられていた名門・山内上杉家の15代当主です。
後にはこの関東管領職と上杉氏の家督を越後の長尾景虎に譲り、今日よく知られている戦国大名・上杉謙信を誕生させることになりました。
この禅譲は、実力のある者しか生き残ることが難しかった戦国時代を象徴する出来事と見る事ができます。武田、北条、上杉ら有力な戦国大名に囲まれた正憲の生涯について調べてみました。
北条の圧力
憲政は、大永3年(1523年)に上杉憲房の子として生まれました。憲政がわずか3歳の大永5年(1525年)、父・憲房が亡くなり養子の上杉憲寛が跡を継いで山内上杉家の当主となりました。
しかし享禄4年(1531年)には実子であった憲政を擁立する家臣らが糾合し、憲寛勢を排除することになりました。ここに憲政は齢9歳にして、山内上杉家の当主であり、同時に関東管領職に就くことになりました。
しかし、この頃の山内上杉家は北条氏に度々脅かされていました。憲政は、北条氏に対抗するため、天文14年(1545年)にはそれまで敵対してきた扇谷上杉家の上杉朝定と手を結び、更に足利晴氏を味方につけ、駿河の今川義元とも和を結ぶことに成功しました。
こうして関東管領職の名目の下、関東の武士を束ね、北条氏康が駿河へ向かったところで、北条綱成の河越城を攻めてこれを包囲しました。
ところが翌天文15年(1546年)4月に今川攻めから兵を返してきた北条勢の寡兵に夜襲を受け、3,000人を超える損害を出す敗北を喫しました。
越後への逃避
憲政は、翌天文16年(1547年)には村上氏の救援のため信濃志賀城に兵を進めましたが、佐久郡小田井原においての小田井原の戦いで武田勢に敗れたことで、相次ぐ家臣の離反を招くことになりました。
天文21年(1552年)になると、武蔵で北条方と対峙していた御嶽城が陥落し、憲政の居城・平井城も北条勢からの直接の脅威に直面しました。
更に、箕輪の長野氏などを始めとした残りの配下の勢力も北条勢に下り、憲政の馬廻衆までも北条に下ってしまいます。こうして憲政は居城・平井城を捨てて落ち延びることになりました。
憲政は足利長尾氏や横瀬氏を頼るもののそこにも北条の勢力が及んだため、利根吾妻の上野の北へと向かい、越後の長尾景虎に庇護を求めました。
上杉の譲渡
憲政は弘治3年(1557年)頃に越後で長尾景虎を養子にしたとされています。その後、景虎は永禄3年(1560年)に未だ関東管領の職にあった憲政を旗頭として、北条氏討伐の兵を挙げ、関東の諸将を従えながら北条氏の居城・小田原城を目指すとこれを包囲しました。
この時小田原城を落とすことはできませんでしたが、翌永禄4年(1561年)3月、憲政は鎌倉鶴岡八幡宮において長尾景虎へと関東管領の職を譲り、景虎はその職と山内上杉家の家督を引き継ぎました。
上杉憲政 の最期
憲政が譲った上杉家では、天正6年(1578年)に謙信が死亡したことで、その跡目を巡る御舘の乱が起こりました。
これは謙信の養子同士であった景虎と景勝との争いでしたが、憲政は北条氏との関係を鑑みて北条氏康の実子であった景虎の側に与したとされています。
この争いは、次第に武田勝頼の支援を得た景勝が優勢となっていきました。翌天正7年(1579年)に憲政は景虎の子・道満丸を伴って交渉のために景勝の許へと向かいましたが、途上で景勝方の者の手にかかり誅殺されたと伝えられています。
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