明治まで続いた浅野家の祖
浅野長政(あさのながまさ)は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に仕えた武将・大名で、豊臣政権下では五奉行の筆頭を務めながらもその後の徳川幕府でも重用され、安芸広島で明治まで続いた大名・浅野家の祖となった人物です。
戦国武将として今に伝えられる程の飛び抜けた武功は伝えられていないようで、比較的に地味な印象ながら、時代の流れに着実に対応して家を繁栄させたと言えます。
その歩みについて調べてみました。
大名への抜擢
長政は天文16年(1547年)に尾張の安井重継の子として生まれました。
織田信長に仕えていた母方の叔父にあたる浅野長勝の娘の婿養子となっいたことで、浅野の家督を相続したと伝えられています。
この婿養子入りで、長政は長勝の養女となっていたねね(後の北政所)と義兄妹とりましたが、ねねが豊臣秀吉に嫁いだことで、秀吉の縁戚となり信長の命を受けてその与力となったとされています。
長政は、天正元年(1573年)の浅井攻めの後、その功で秀吉が小谷城主に任じられると自身も近江に120石を拝領しました。
その後、信長が本能寺で討たれたことでそのまま秀吉の家臣となり、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い(秀吉と柴田勝家の戦い)で秀吉の勝利に貢献し、戦後近江の大津2万石を拝領し大名に列することになりました。
長政は翌天正12年(1584年)に京の奉行に任じられ、その後には豊臣政権の五奉行の筆頭にも選ばれました。
長政は殊に行政にその才を発揮して、豊臣政権が実施した太閤検地の推進に貢献したとされています。
奥州仕置の実行
長政は続く天正15年(1587年)の九州征伐にも従軍し、戦後の同年9月には若狭の小浜8万石に加増されています。
続く小田原征伐では石田三成らと忍城の戦いにあたり、戦後の事後処理においては三成に代わって中心的な役割を果たしています。
天正18年(1590年)からの奥州仕置においても、豊臣政権の代表として兵を率い、その執行役として南部信直らと連携しつつ、発生した葛西大崎一揆や九戸政実の乱への武力討伐を行いました。
文禄2年(1593年)には朝鮮出兵への貢献もあり、甲斐国府中21万5千石を領することとなり、東国の諸侯の窓口の役割りを果たしました。
この配置は奥州の伊達政宗や南部信直らの監視・監督を担うものとされていますが、実際の甲斐での領国支配は、長政の嫡男・幸長が行い、長政自身は上方への滞在が長かったと伝えられています。
関ケ原で東軍に与す
長政は秀吉が没した後の慶長4年(1599年)、増田長盛の讒言から徳川家康を憚って謹慎し(前田利家とともに家康暗殺を目論んだと疑われた)、家督も幸長に譲ると自らは武蔵の府中へと隠棲しました。
翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、長政自身は謹慎中につき従軍していませんが、幸長が東軍の先鋒を務め、岐阜城を攻略するなど東軍の勝利に貢献しました。
戦後、幸長はこの功から紀伊・和歌山37万石へと大幅な加増・転封を受け、また長政は徳川幕府の成立に伴い家康に従って慶長10年(1605年)に江戸に移リ住みました。
長政は慶長11年(1606年)には幸長の領地とは別に常陸の真壁5万石を拝領し、徳川幕府からも重用されました。
外様大名として繁栄
長政は慶長16年(1611年)に真壁にて享年65歳で世を去りました。
幸長の死後には、子孫の浅野長晟(あさのながあきら)が家督を相続して、福島正則が改易された後を受けて、元和5年(1619年)に安芸国広島藩へと加増・転封されました。
浅野家はその地で、そのまま明治まで続く外様大名の名家として繁栄しました。
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