一次史料にはない伊勢守
上泉信綱(かみいずみのぶつな)は、その高弟達が数々の流派を生み出す元となった「新陰流」を起こした、後年には剣聖とも称された剣豪です。
伝説の剣豪として伊勢守の官名で知られている信綱ですが、その名称についても一次史料では確認が出来ていない謎に包まれた人物となっています。
史料上では、公家の山科言継が記した『言継卿記』に「大胡武蔵守」や「上泉武蔵守」の名称で記載されており、現在知られている伊勢守とは異なっています。
ここでは巷説も交えた信綱の経歴について調べて見ました。
長野氏に仕え新陰流を創始
信綱は永正5年(1508年)、上野の大胡城を居城とした大胡氏に連なる一族の家に生まれたと伝えられています。
若き頃より様々な流派の剣術を学ぶ傍ら、上泉城を治めていたとされています。この地は一時期は関東の北条氏の支配下に置かれ、信綱もそれに従っていたようです。
その後、箕輪城を居城とした長野業正が一帯を支配するようになり、信綱の上泉家もそれに臣従しました。
同時に剣術において非凡な才を見せた信綱は、享禄4年(1531年)頃、陰流の師・愛洲移香斎から流派の伝書や太刀など一式を継承し、後に自らの創意を加えた「新陰流」を起こしたと伝えられています。
武田信玄からの諱
信綱は長野業正・業盛の2代にわたって仕えると、武田信玄や北条氏康などの名だたる戦国大名を向こうに回して一歩も譲らぬ戦振りをみせ、小豪族に過ぎなかった長野氏にあってその武名を知らしめたと伝えられています。
しかし長野氏が1555年(天文24年)に武田信玄によって滅ぼされると、信綱の武勇を惜しんだ信玄からの再三の要請を断り、弟子たちを伴って諸国を回る修行に出たました。
甲斐武田氏の軍学の書「甲陽軍鑑」によればこの時に信玄からの諱を与えられて、これ以後から信綱と名乗るようになったと記されています。
胤栄と柳生宗厳
信綱は高弟の疋田景兼らを伴って諸国を巡りました。西へ向かった一行は伊勢の大名・北畠具教の下を訪れて、そこで当時から槍術の遣い手として知られた奈良宝蔵院の胤栄(いんえい)と出会いました。
信綱らは胤栄を訪ね、そこで同時に後に「柳生新陰流」を創始する柳生宗厳と手合わせをして両名を打ち負かしたと伝えられています。
打ち負かされた柳生宗厳と胤栄はその場で信綱の弟子となり、2年後には印可状を与えられるまでに修行を積んだといいます。
因みに信綱に従っていた弟子である疋田景兼は疋田陰流、丸目長恵はタイ捨流を創始するなど、多くの流派の源流となったのが信綱でした。
足利将軍への上覧
信綱は永禄7年(1564年)に京の二条御所に招かれました。おそらく公家の山科言継を訪ねたことで、時の室町将軍である足利義輝の耳に信綱の噂が入り、その縁で剣技の上覧を行うこととなったものと思われます。
この上覧のでは信綱の相手を務めたのは高弟の神後伊豆ではなく、弟子入りから間もなかった丸目蔵人長恵だったと言います。
信綱は、自身も剣豪・塚原卜伝に師事し奥義である「一之太刀」を授けられた義輝から「天下一」の称号を送られたと伝えられています。
更に信綱は元亀元年(1570年)には、神後伊豆を相手として時の正親町天皇の御前において剣術初と言われる天覧演武を披露する栄誉を得ました。この功で信綱は従四位下武蔵守に列せられました。
信綱は没年も定かではなく、天正5年(1577年)70歳とも天正10年(1582年)75歳とも言われています。
どちらにせよ剣聖とも称された信綱は、小豪族・領主として戦国の世を生き抜き、日本で最も名のしれた剣豪として生涯を終えました。
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