失態からの教訓
佐賀藩の鍋島氏は肥前36万石を治める大身国持(一国持ちではないが、大領を有した国主)の大名であり、明治時代となるといわゆる薩長土肥の一つに組み込まれるなど、明治維新に貢献した藩でもありました。
そんな佐賀藩ですが、幕末以前は当時の日本の唯一の国際港・長崎にほど近い所にあったために、幕府から福岡藩と一年交代で長崎警固役を命じられていました。
しかし、長崎の警備における負担は全て自国の自腹。それが大きく藩政の負担となってしまい、さらには1808年にフェートン号事件(イギリスの軍艦フェートン号がオランダ船を追跡し、長崎で暴れた事件)が起こります。
本来なら厳しく取り締まらなければならないのにもかかわらず何も出来なかったとして、当時の藩主鍋島斉直が100日間の閉門という処罰を受けてしまいました。
佐賀藩はこのフェートン号事件によって、異国の侵入にも対応できなければならないと痛感し、急速な近代化を進めていくことになります。
鍋島直正による近代化
フェートン号事件から22年後の1830年。佐賀藩の第10代藩主として鍋島直正が就任します。
直正は就任してまず、膨大な負債があった佐賀藩の財政を立て直すために、藩政改革を実施。
無駄だった役人をリストラしたりコストカットを進め、代わりに佐賀藩の藩校である弘道館を充実させていき、さらに佐賀名物の陶磁器などの産業育成を行なって財政を再建していきます。
そして藩政改革で潤った財政を余すことなく西洋の技術研究に使い、西洋の医術や技術などを学ぶ精錬方(せいれんかた)と呼ばれる研究機関を創始。
直正も自ら長崎に寄港していたオランダの船を見学して、その優れた造船技術を学んでいったのでした。
直正は近代化の重要さを理解している聡明な藩主だったのです。
黒船来航よりも早く近代化
こうして佐賀藩は熱心に近代化を推進していきました。
その近代化の速度は早く、黒船来航の4年前の1849年には日本初の製鉄所を建設。さらに来航の1年前には築地反射炉を稼働させます。
そしてロシア使節が長崎に訪れた時に見せてもらった模型の蒸気機関車を、当時の精錬方のエンジニアであり、のちの東芝の創業者となる田中久重が中心となって模倣させました。(模倣した期間はわずか1年)
さらに佐賀藩の凄さはとどまることを知らず、黒船来航によって幕府から大型の船の建造が許可されると、真っ先にオランダから軍艦を発注。
その軍艦を元に西洋の黒船を作り上げて1865年には日本初の蒸気船が完成。
翌年には西洋でもまだ新兵器であったアームストロング砲をほとんど自力で開発。
幕府が築いた品川台場の砲台の建造も手掛け、佐賀藩は日本で一二を争うほどの軍事力を持つ大藩として、日本中から注目をあびるようになったのでした。
「肥前の妖怪」と言われた佐賀藩の日和見主義
そんな佐賀藩ですが、時勢が倒幕に向かっている中、最後の最後まで日和見主義だったことでも知られています。
直正は倒幕の波に乗って混乱を招くのではなく、近代化に打ち込むべしと考えていました。そのためこの頃の佐賀藩は他藩とのつながりも薄く、まるで鎖国しているような状態でした。
しかし鳥羽・伏見の戦いで薩長中心の新政府軍が勝利すると、佐賀藩はついに重い腰を上げて新政府軍として参戦。
上野戦争においてはその近代化の賜物であるアームストロング砲が火を吹き、わずか1日で上野彰義隊を鎮圧。
佐賀藩の圧倒的な軍事力が、ついに日本中に知れ渡りました。
佐賀藩のその後
こうして佐賀藩は最後の最後で新政府軍に貢献し、明治時代に入ると薩長土肥の一つに数えられるなど新政府内で重要な役割を担っていきました。
主な著名人物としては、初代司法卿で日本の司法制度を整備した江藤新平、大蔵卿などを歴任して内閣総理大臣にまで就任した大隈重信、蝦夷地を開発して札幌の基礎を作り上げた島義勇などが挙げられます。
その後、直正は新政府において満州・オーストラリアの鉱山開拓や廃藩置県の推進などを説きましたが、1871年に志半ばで死去。
その後、佐賀藩士は明治六年政変によって多数が下野してしまい、新政府にあまり貢献はできませんでした。
佐賀藩は薩摩藩や土佐藩と比べると知名度では見劣りしますが、明治維新にとって重大な貢献をしたという観点で見れば、第一等級だったと考えていいでしょう。
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