日本で最も短い元号は、鎌倉時代中期、暦仁(りゃくにん)の74日。命名の出典は中国二十四史の一つ『隋書(ずいしょ。音楽志下)』にある
「皇明馭暦、仁深海県(こうめいれきをぎょし、じんはかいけんにふかし)」
【意訳】賢明な君主は天地の巡り(暦)を正しく管理し、その仁愛は海や県(田舎)≒世の果てにまで深く行き渡っている
とされており、それまで天変地異が続いていた嘉禎四1238年11月23日、藤原経範(ふじわらの つねのり)の撰進によって改元されました。
暦仁元1238年は鎌倉の大仏建立事業が開始されるなど、新たな世に期待が込められたのですが、世間では「りゃくにん=略人」つまり「(この世から)人間が略されて(消滅して)しまう」から縁起が悪いという噂が広まってしまいます。
風評に慌てた当局は「変災が続いたため」として暦仁二1239年2月7日、延応(えんおう)に改元。よく「人の噂も七十五日」などと言いますが、それよりも短い年号として、歴史にその名を刻んでしまったのでした。
しかし、上には上(下には下?)がいるもので、海を隔てたお隣、元号の本場?である古代中国には、もっと短い元号があったと言うのです。
おまけに、その年は1年間に4回も改元が行われたそうで、いったいどんなトラブルに見舞われてしまったのか、海を越えて心配せずにはいられません。
そこで今回は、1年に4回も改元が行われた古代中国の歴史を垣間見てみようと思います。
中平⇒光熹⇒昭寧⇒永漢⇒また中平へ
さて、時は中平(ちゅうへい)六189年。中国大陸の大部分を漢(かん。後漢)帝国が支配していましたが、その栄光はやがて破綻の兆しを見せ、間もなく崩壊に向かおうとしている……いわゆる『三国志』物語の黎明期に当たります。
この年の4月、第12代皇帝・劉宏(りゅう こう。霊帝)が崩御。その長子・劉弁(りゅう べん。少帝)の即位に際して、光熹(こうき)と1回目の改元が行われました。ここまではよくある「皇帝の代替わり」に伴う通常の改元です。
通例なら、このまま数年間は光熹が続くものですが、改元から間もない8月に外戚(母・何太后の兄)である大将軍・何進(か しん)が宦官勢力の十常侍(じゅうじょうじ)によって暗殺されると、朝廷は大混乱に陥ってしまいます。
事態を収拾するべく、何進の下についていた名門の袁紹(えん しょう)らは全国各地の軍閥らを招集。その中には、やがて朝廷を牛耳って暴虐の限りを尽くす梟雄・董卓(とう たく)も含まれていました。
堂々と軍勢を率いて上洛するお墨つきを得た董卓は、天下を奪う好機到来と喜び勇んで首都・洛陽を目指します。運不運は重なるもので、洛陽への途上、幸運にも洛陽から脱出・避難していた少帝一行の身柄を確保します。
董卓らが「皇帝陛下をお救いした英雄」として洛陽入りを果たすと、既に宦官勢力は袁紹らによって殲滅されており、董卓は「皆の者、ご苦労である」とばかり、まるで宰相のような顔で少帝の傍に侍ったのでした。
そして「我こそが天下の号令者である」というメッセージを込めて、本年2回目の改元を実施。せっかくの光熹は5か月目にして昭寧(しょうねい)に改められます。
……と思ったら、その翌月(※)には董卓が少帝を廃して(その後、間もなく暗殺)異母弟の劉協(りゅう きょう。献帝)を即位させ、あっさり永漢(えいかん)へと本年3回目となる改元が行われました。
(※)『後漢書』によれば、昭寧は8月28日(辛未)から9月1日(甲戌)の3日間だけだったそうで、恐らくこれが世界で最短の元号だと思われます。
「漢帝国が永遠に栄える」ように……今や誰も期待していない、そんな願いを込めての命名なのでしょうが、本来は地方の一軍閥に過ぎなかった董卓が、意のままに皇帝を挿(す)げ替える現状を思うと、ブラックユーモアにしか思えません。
さて、皇帝の生殺与奪も我が意のまま……すっかり調子に乗った董卓ですが、適当に名づけた永漢の年号に飽きてしまい(そもそも漢帝国の永続を願う忠誠心など不要と感じ)、しかも新たな元号を考えるのも面倒になってしまったようです。
そこで12月には献帝に詔勅を出させ、この一年間はずっと中平六年だった(光熹、昭寧、永漢はなかった)ものとして扱われることになりました。かくして、一年間で計4回の改元が行われたのでした。
1月~4月 中平六年
4月~8月 光熹元年(改元1回目。少帝の即位)
8月~9月 昭寧元年(改元2回目。少帝の帰還?) ※8月28日~9月1日(世界最短?)
9月~12月 永漢元年(改元3回目。献帝の即位)
12月 中平六年(改元4回目。董卓の気まぐれ?)
こうしてせっかく中平に戻ったのも束の間、年が明けると初平(しょへい)に改元され、初めて(ようやく)平和になるのかと思いきや、正月早々に袁紹らが反・董卓連合軍を結成。
『三国志』ファンとしてはますます面白くなってくるところですが、当時の庶民としてみれば、あまりに目まぐるしい混沌の世に、一刻も早い平安を願わずにはいられなかったことでしょう。
※参考文献:
藤田至善 解説『後漢書 (中国古典新書)』明徳出版社、1970年1月
陳寿『正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)』筑摩書房、1994年3月
井波律子『三国志演義 全7巻セット (ちくま文庫)』筑摩書房 、2003年8月
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