人気の戦国武将ランキングや最強の戦国武将ランキングで、必ず上位にランキングしている戦国武将と言えば上杉謙信です。
謙信率いる上杉軍がなぜ強かったのか、どのような戦いを経ていったのか、わかりやすく解説いたします。
上杉謙信の強さのルーツ
上杉謙信は、幼少期に父親から嫌われていたことで越後(新潟県)春日山城下の林泉寺に預けられました。その時の住職が林泉寺6代目住職の天室光育(てんしつこういく)です。
7歳の時から天室光育に学問だけでなく禅や兵法の教えを受け、模型の城を使って城攻めの遊びをしていたようです。これらの影響を受けて、武勇の遊戯では周りにいる人を驚かせるほどの腕前を身につけたとされています。
その頃から戦の駆け引きに優れた才能を見せ始めていたのです。
上杉謙信の強さはそこから始まり、林泉寺住職の天室光育は、謙信の恩師とも言われています。
上杉謙信の性格
上杉謙信の母親である虎御前(青岩院)は、観音菩薩の信心深い性格で、謙信はその影響からか戦国武将というより僧としての性格があります。
謙信は己の野望のために領土を拡大していくという欲がなく、越後を守るために戦った武将です。野心がない武将でしたが、応援を頼まれると断らずに戦に参加する人間味あふれる武将でした。戦にも大義名分を重視するために自らを「毘沙門天の化身」と称していたと言われています。
自分に厳しく、家臣にも厳しかった謙信ですが、家臣の家族に直筆の手紙を書くなど、思いやりのある優しい性格の持ち主でした。
その一方で、戦では敵陣の前で弁当を食べたり、敵陣に自ら突入していったりと、豪快な一面も持ち合わせていました。
上杉謙信の兵士達
上杉謙信の強さを支えてきたのは、「越後兵」と呼ばれる兵士たちです。多くの兵士は、越後の農民が中心となっていました。
普通の農民が戦国最強の兵士と呼ばれるようになったのは、越後特有の環境が大きく影響していたのです。
当時の越後地方の田んぼは、深田と呼ばれ、農作業をするには胸まで田んぼに浸かりながらの作業で、嫌でも足腰が強靭に鍛えられる環境でした。
また、上杉軍が使用していた武器の7割が槍だったとされています。この槍も通常の兵士が使う槍より短く、小回りが利くメリットがあり接近戦に有利だったとされています。
この短い槍と足腰を強靭に鍛え上げられた兵士たち、それに謙信の戦術が相まって戦国最強の軍団となっていったのです。
上杉謙信の合戦成績
上杉謙信の合戦生涯成績は、70戦43勝2敗25分となっていますが、飛びぬけているのが引き分け数です。この引き分けにおいても上杉軍はダメージを最小限に留めています。
当時の有名な戦国武将でも、ライバル武田信玄は49戦で11敗、あの織田信長でも23戦で9敗となっています。
引き分けが多いとしても70戦43勝2敗25分はずば抜けた戦績です。
ただし、この合戦成績は諸説あります。引き分けの定義が曖昧なので、一説には61勝2敗8分とする説もあります。
謙信が負けた2敗は、生野山の戦いと臼井城の戦いで、どちらも北条氏康が絡んだ戦いです。北条氏康は自身が出陣した戦いでは36戦無敗を誇っています。
北条氏康に関しては強さの割に知名度が低いのが残念なところです。
軍神
ほとんどの戦国武将が後方から指示を出すのに対して、上杉謙信は先頭に立って兵士に指示を出していました。
ですので上杉軍は常に士気が高く勢いがあり、さらに謙信自身が軍略に長け屈指の戦上手だったことから、上杉謙信は「軍神」「越後の龍」などと称されました。
ライバル 武田信玄
上杉謙信の戦いの中で有名なのが、武田信玄との12年間に渡る川中島の戦いです。
この戦いは、村上義清が武田信玄との戦いで本領を失い、謙信に救いを求めたことから始まりました。
この5回の戦いは、両陣営とも「我が軍の勝利」と謳っていますが、最後の戦いでは、60日間のにらみ合いのまま合戦には至らず、引き分けとなっています。
ただし、武田軍に北上を許していることから、上杉軍の劣勢だったとも言われています。
この川中島の合戦で、上杉謙信と武田信玄はライバルと言われるようになりました。
信玄は謙信の人間性も高く評価しており、臨終の際には「もし国に危機が訪れたら上杉謙信に頼れ」と、息子の勝頼や家臣たちに遺言したという逸話もあります。
敵に塩を送る
今川氏真と武田信玄の同盟関係が悪化して、信玄が治める甲斐国への塩の供給が止められたことがありました。
それを知った謙信はなんと信玄に塩を送り、そのお礼に信玄は刀を送ったというエピソードがあります(※ただし史料がなく後世の創作ともされている)
この話が美談となり、「敵に塩を送る」ということわざが誕生したと言われています。
織田信長はたいしたことない
上杉謙信と織田信長は、本人が指揮する軍団同士での直接対決はありません。
上杉vs織田の唯一の戦いが、柴田勝家率いる織田軍と対決した手取川の戦いで、織田軍4万の兵士に対し、上杉軍2万の兵士でした。
この戦いは上杉軍が勝利しますが、勝った要因としては雨の影響が大きいと言われています。
当時の鉄砲は火縄銃で、雨によって鉄砲隊をうまく活用できなかったことが織田軍の大きな敗因ですが、織田陣営内での内輪揉めも一つの要因だったとされています。
この戦いの後に謙信は、「織田の軍勢存外大したことなし」といった内容の書状を残しています。
気候を利用したとはいえ、歴戦の謙信が直接対峙して肌で感じた感想なので、軍団としての実力差は明確だったと言っていいでしょう。
織田信長は上杉謙信を恐れて直接対決を避けてきたと言われています。
あの信長が洛中洛外図屏風を謙信に送っていることからも、当時の謙信率いる上杉軍がいかに恐れられていたかがわかります。
上杉謙信が天下を取れなかった理由
信長ですら恐れる謙信が天下を取れなかった理由は、謙信の強さのルーツにさかのぼれば見えてきます。
上杉軍はあくまでも越後の領地を守るための軍であり、他国からの援軍に応じることはあっても他国を攻める合戦はしませんでした。
領土拡大の戦はしなかったのです。
上杉謙信の名言に、「人の落ち目を見て攻めるとは、本意ならぬことなり」というのがあります。それだけでも必要のない戦いはしない決意が見て取れます。
また、長期戦には不利な条件がありました。最強の軍団でも兵士のほとんどが農民で、農作業の時期には農家に戻らなければなりません。
さらに関東での戦では三国峠を越える必要があり、冬の期間は雪で閉ざされてしまうため、雪が降る前に帰る必要がありました。
他には、越中での一向一揆に悩まされたことも天下を取れなかった大きな要因と言われています。
とはいえ謙信は相手の作戦を瞬時に見抜いて裏手をとる天才的な戦術家であり、もし天下取りに動いていれば自国の不利な条件も克服し、天下を取れる実力は十分あったと思います。
天下を取れなかったというより、天下を取る野心がなかったというのが上杉謙信の人物像として正確なところではないでしょうか。
上杉謙信の最後
上杉謙信は、1577年の織田軍との手取川の戦い後、再度出陣準備をしており、翌年の出陣前3月9日に居城の春日山城の厠で倒れているところを発見され、4日後に亡くなりました。享年49歳。死因は脳溢血という説が有力です。
大の酒好きだったそうで、酒による不摂生が原因と考えられています。
当時は人生50年と言われていた時代。
上杉謙信は、戦の最前線で指揮を執りながら死ぬ間際まで戦い続けた、まさに軍神でした。
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謙信は兄貴を追い出して足利義輝から越後守護代に任命してもらって自身の行動に正当化でき、さらに上杉憲政から関東管領を貰って、過去に上杉家を追い出した長尾家としての後ろめたさを払拭出来た為に、天下を望まずに室町幕府の臣として努めてた事が大きい。天下を望んだ時は時間切れだった。
まずは勝家と秀吉の陣取りを巡っての争い
秀吉は兵を引いたのが織田軍としては痛かった
手取川の戦いは近年の研究で前日までは雨が降っていたが、当日は曇り火縄銃に発火できない天気ではなかった
勝家が謙信が近く迄来ていることに
あわてたのが、一番の敗因
雨のせいだけではない
謙信の織田軍への包囲や静かな動きが一番の勝因