三国志を読むと感じる違和感
正史、演義関係なく、三国志を読むと違和感を感じるところがある。
劉備と関羽の絡みが少ない、いや、少なすぎる。
長年劉備に付き従っていたイメージの強い関羽だが、劉備にとって初めての領地である徐州を手に入れてからは目立った絡みがほとんどなく、劉備と関羽が一緒に過ごした時間は思ったよりも少ないという意外な事実に気付く。
今回は、三国志の不可解な記述から劉備と関羽の本当の関係に迫る。
曹操配下時代の関羽
正史に於ける関羽の記述が乏しいため、劉備とともに行動した記録が少ないのはまだ分かるが、演義を見ても早い段階から関羽だけ別行動が多い。
領地を持たず、流浪の日々を送っていた時はともかく、劉備が徐州を手に入れた後(199年~200年が境界線)は別働隊を率いたり、別の城の守備や荊州の統治を任されたりするなど別行動が多くなっている。
有名な場面を出すと、曹操に敗れた劉備は張飛とともに逃げているが、下邳を守っていた関羽は一人取り残され、曹操に降伏している。
演義では「自分は漢に降伏するのであって、曹操に降伏する訳ではない」とあくまで劉備への忠誠心を強調しているが、曹操から任命された偏将軍を断っていないところを見ると、演義の発言は説得力がなくなってしまう。(偏将軍は数ある将軍位の中でも最下位の地位であり、曹操軍の中で関羽は末席にいた)
地位が低いとはいえ、実力主義の曹操軍に肩書きは関係ない。
曹操配下の武将となった関羽は白馬の戦いで顔良を斬ると、その武功を高く評価した曹操の推薦によって漢寿亭侯に封じられる。
「亭候」とは爵位の一つで、小さな土地の侯爵を意味するため、偏将軍も漢寿亭候もそれほど高い地位ではないが、関羽が漢や曹操といった劉備以外の人間から位を貰った事に変わりはない。
命あっての物種なので、わざわざ自分の寿命を減らすような事をする必要もないが、劉備一筋の人間という関羽のイメージは完全に崩れてしまった。
なお、関羽が劉備の元に戻りたいという意思を強く持っていたのは正史も同じであり、それを聞いた新入り仲間の張遼が曹操に報告したところは正史と演義の両方で一致している。
曹操は関羽を引き止めようとプレゼント攻勢を仕掛けるが、関羽は手を付けずに曹操の元を立ち去り、曹操は配下に関羽を追わないよう言い聞かせた。
曹操からの贈り物に手を付けず返すところは美談として語られているが、許昌から170キロしか離れていない汝南にいる劉備と再会するための数日間の費用としての路銀ならともかく、短い距離とはいえ、かさばる大荷物を持って出発しても邪魔なだけである。
厚遇してくれる上に出世ルートしか見えない曹操より、いつ滅ぼされるか分からない劉備を選んだ理由は劉備への忠誠心以外に説明出来ないが、旅に関して割と現実的な考え方をしているところは劉備に近いものがある。
多すぎる単独行動
演義のような人斬り珍道中など一切なく、無事に劉備と合流した関羽は、荊州の劉表を頼った劉備に同行している。
曹操が袁家の残党を滅ぼすのに苦戦していた事もあり、劉備は関羽、張飛とともに久々に一緒に過ごす時間を得る。
8年にも及ぶ長い時間を過ごしていた劉備達だが、袁家を滅ぼしてから程なくして劉表が病没すると、ついに曹操が荊州に攻めて来る。
劉表の後を継いだ劉琮があっさり曹操に降伏すると、劉備は曹操から逃げるため樊城を捨てて江陵に向かう。
ここで不可解なのは、関羽だけ別働隊を率いて後から合流しようとしたという記述である。
曹操軍が目の前に迫っているのに軍を分散させる余裕などない(全滅を避けるにしても危険な陸路を逃げる劉備に何かあったらどちらにせよ終わりである)はずだが、関羽が自分の兵を持っていて、戦闘時は自由に使う事が出来たと考えればどうだろうか。(劉備の指示と書かれているが、関羽が自分の判断で劉備から離れたと考えたらまた話は変わって来る)
関羽は数百隻の船を率いて出発したとの事だが、数千人とはいえ私兵を持っているのは劉備陣営の中でも強い権限を持っていたと見るべきである。
よくよく考えたら悪手に見える兵の分散は、劉備軍に大きな被害を出しつつも何とか劉備と関羽が合流出来たため最悪の事態だけは避けられたが、合流する前に劉備が捕まったり殺されたりしたら関羽はどうするつもりだったのか、その世界線が非常に興味深い。
赤壁の戦い後の荊州攻めで関羽の目立った活躍は書かれていないが、南郡を平定した劉備はこれまでの関羽の功績を評価して襄陽太守、盪寇将軍に任命した。(なお、襄陽は曹操の領地であり、襄陽太守は実際は名ばかりの役職であった)
その後、関羽は長江の北の守備を任されたとあるが、やはり、劉備とは別行動であり、劉備の益州攻めで張飛、趙雲、諸葛亮といった主力組が増援として蜀に向かう中で、関羽は一人荊州に残っている。
素直に解釈すれば関羽を仲間外れにした訳ではなく、曹操と孫権から最重要拠点である荊州を守れるのは関羽しかいないという期待と信頼による抜擢だったと見えるが、荊州の統治を任された関羽の行動はどうだったのだろうか。
一武将としては強すぎる権限
劉備が益州を手に入れると、関羽は荊州の軍事総督に任命されている。
重要拠点である荊州の統治を任されたという事は、劉備陣営でも特に強い権限を与えられた事を意味するが、それが関羽の身を滅ぼす事になる。
関羽の名誉のために言っておくと、民による大規模な反乱が起きる事もなく、少なくとも内政面は劉備の期待通りかそれ以上の成果を出していた。
但し、荊州を巡って呉と戦闘になるなど、外交面は成功とは言い難く、最終的には荊州を失っている。
為政者としての関羽の力量は一旦置いといて、ここで注目すべきは一人の配下武将としては強すぎる関羽の権限だ。
呉と関係が悪化した関羽の行動を辿ると、孫権との娘の縁談を一方的に断った一件がまず浮かぶ。
大事な縁談を劉備に相談しなかった(外交面も関羽に一任されていたとすると、一人の配下としては権限が強すぎる)関羽にも問題はあるが、孫権が劉備に連絡を取ろうとしなかった事にも疑問が残る。
実際に関羽と孫権の間で縁談が纏まっていれば更に両国の関係が強化されていたため、関羽の生涯でも最大クラスの失敗だったが、関羽の態度に腹を立てていたとはいえ、孫権も劉備に根回しをして関羽を翻意させようとする事は出来たはずだ。
孫権に荊州を手に入れる勝算が本当にあったならまだ分かるが、関羽の動き次第では叶わない可能性もあったため、蜀との関係強化に注力した方が得策だったので、劉備を介さず行われた関羽と孫権の縁談には疑問が残る。
また、関羽にとって最後の戦いとなる樊城の戦いだが、きっかけは曹操の配下・侯音の反乱だった。
関羽と組んだ侯音の反乱自体は鎮圧されるものの、魏に動揺を与えるのに十分だった。
その後、劉備が漢中を手に入れると、関羽は軍事に於ける強大な権限を持つ「仮節鉞」に任じられ、荊州の軍事面を一任される事になる。
前述の反乱に加え、漢中の戦いでも敗れるなど曹操陣営の動揺は激しく、それを見た関羽も独自に軍を出したところから、最後の戦いが始まる。
そう、樊城の戦いは劉備の命令ではなく、関羽の独断で始まった戦いなのだ。
また、関羽は反乱を煽動するため印綬をばらまいているが、強い権限を持っていたとはいえ、君主である劉備以外の人間が他人に印綬を与えるのは普通に考えたら有り得ない。
「関羽は与えられた強大な権限から自身を独立勢力と見ていた」というのは飛躍しすぎた「珍説」だが、荊州を任されてからの行動を見ると、劉備に生涯を捧げた「忠臣」と見る事は出来ない。
信頼か暴走か
三国志でもトップクラスの人気を誇り、義に厚いイメージから商売の神として崇められる関羽だが、正史の記述から生涯を辿ると、本当に劉備と良好な関係だったのか疑問を覚える。
三国志、及び関羽ファンが思っているほど正史に於ける関羽の記述は詳細ではなく、謎の多い人物であるためこの手の珍説が生まれやすいという面はあるが、劉備から離れた単独行動が多く、劉備陣営に於いて一緒に過ごした時間が他の武将よりも少ないのは正史が伝える事実である。
珍説を真に受ける訳ではないが、晩年の関羽の「暴走」を見ると、三国志でも屈指の気難しい男である関羽と付き合うのは想像以上に難しく、前将軍に任じた時は黄忠と同格に扱われる事を嫌がったというエピソードがあるように、軍神の扱いは劉備もかなり手を焼いていたようである。
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