世界には多くの民族が存在する。
その中でも特に戦争や戦いの中にアイデンティティを持っている民族がいくつか存在した。
古代ギリシアのスパルタ人、ヨーロッパの北方民族ヴァイキング、ネパールのグルカ兵、オセアニアのマオリ族などが有名である。
彼らは歴史上において戦いの中で活躍し、生活、文化そのものが戦いであった。
今回は映画300(スリーハンドレッド)でも有名になった、スパルタ人について解説する。
スパルタとは
スパルタは、現在のペロポネソス半島南部スパルティにあった、古代ギリシア時代のドーリス人による都市国家(ポリス)である。
紀元前10世紀ごろに、北方からペロポネソス半島南部に侵入して先住民アカイア人を征服、奴隷にして紀元前1104年に「エウリュステネス」が建国したと言われている。
ギリシア世界には様々な都市国家が存在しており、その数は200程あった。
その中で有名なのは「スパルタ」「アテネ」である。
スパルタは軍事国家、アテネは商業国家として繁栄しており、ギリシア世界を代表する二大国家となった。
スパルタ人の社会と思想
スパルタは王制であり、国王が国を統治する国家であった。
スパルタの階級は3つの階級から成り立っていた。
1 スパルタ人 スパルタの市民権を持つ人たちで支配階級である、2~3万人ほどいた。
2 ヘイロタイ 奴隷階級 奴隷の身分の者は解放されることはなく、スパルタ市民への貢献(土地の開墾や耕作、単純労働)を行い15万~25万人いたとされる。
3 ペリオイコイ 半自由民 スパルタ市民と認められてなく、奴隷でもない身分の人たちで「ペリオイコイ」とは「周辺に住む人たち」の意味である。技術者や貿易商、そしてスパルタ人の武器も彼らが製造していた。
スパルタ市民の男性は、労働に従事しなくてよい代わりに子供のころから戦士になることが義務づけられていた。
当時の「義務教育」を学び、成人してからも30歳まで軍事施設で共同生活することになっていた。
スパルタ人の男性は最強の戦士として育て上げられ、国に命をささげる事が求められた。
スパルタ人男性は「国家への忠誠心が何よりも優先される」という思想の基で生活しており、それ故に最強の軍事国家としてギリシア世界で繫栄することが出来たのである。
スパルタ人の戦士としての倫理観や性格
1 『物理的な欲求の抑圧』
スパルタ人は戦士であることのみが大切であり富を求めることを禁止していた。汚職や金銭を蓄えることが出来ないように国家として硬貨は鉄製のみであり金、銀は使わない事になっていた。これにより大金を持つには大量の鉄製硬貨が必要になり保管、輸送が安易にできないようにしていた。(金貨、銀貨は鉄に比べ同じ量でも価値が高い、つまりそれぞれ硬貨100枚持っていた場合、金貨、銀貨の価値は鉄の硬貨と比べると価値が高い)
2 『怠惰の弾圧』
強く健康であることが大切とされていたことから怠惰は忌み嫌われていた。スパルタの男性は「公の場で裸で検査する」ことが法律で決まっていた。
つまり人前で見せることのできない体は怠惰の証拠で常に鍛錬を求められた。この時に体つきに問題(余分な肉がついている、たるんでいる等)があった場合は処罰の対象であった。
3『臆病者は恥』
臆病者に一度認定されると、スパルタ人としては悲惨な生活が待っていた。
・臆病者との食事は恥ずべきもの
・臆病者と一緒に戦うこと自体が恥
・臆病者は年長者であっても若者に席や順番を譲らなければならない
・臆病者は結婚できない
など、社会生活をしていくうえで虐げられる存在になる。
4 『簡潔かつ率直な会話』
スパルタ人は無駄なことを離さない、回りくどいことをしない人たちであった。マケドニアの王フィリッポス二世が手紙で「スパルタに侵略したら自分を敵か味方どちらで向かい入れるか?」聞いたところ「どちらでもない」の一言だけ手紙で返信したようだ。
スパルタ人は多くを語らず一言で返すことが多い民族であった。
スパルタ人の女性
スパルタ人は女性も非常に強く、自立した者が多かった。
男性とは違う教育を受けており、「強い戦士は強い女性から生まれる」と言われていたので、レスリングや槍投げなどの訓練をしており、運動能力はかなりのものであった。
スパルタの女性は家事全般をヘイロタイ(奴隷)がしてくれたので、家事の負担はなかった。
スパルタ教育の語源、スパルタ人の戦士としての訓練
スパルタ人男性がなれる職業は戦士のみであった。生まれながらにして戦士になることを義務付けられた彼らは、赤ん坊の時から戦士としての選別を受ける。
1 出産直後
子供が生まれると、父親はその子を町の長老たちの元に連れていき長老は赤ちゃんを身体検査し、虚弱であったり、異常があったりすれば、父親にアポテタイという穴に入れるよう命じる。
そこに入れられた子はそのまま飢え死にすることになる。
この検査をパスできると次にワインで身体を洗う。この時にてんかん発作が起きればその子は育てられることはない。
この段階で、生まれた赤ん坊の約半数は育児放棄されるか殺されたようである。
2 子供時代から青年期
『訓練施設』
母親のもとで過ごせる期間は短く、7歳になると親元から引き離され少年監督官という教師から学ぶようになる。
日常的に子供たち同士の口論や喧嘩を監督官は推奨し、トラブルが起きれば暴力により解決するように勧めた。
少年監督官は鞭を携帯しており、子供を叱る際はそれで打ち付けた。
『訓練時代の服』
靴は贅沢品として与えられず、服は抵抗力を下げるという事で粗末なクローク(布一枚を体に巻き付けた物)のみであった。
『食事』
食事に関しても、基本的には必要最低限の量しか与えられない。
空腹時にはそれ以上のものを食べても良かったが、その食事はヘイロタイ(奴隷)やペリオイコイ(半自由民)から盗むように言われた。盗みを推奨していたが、盗みが見つかると食事は取り上げられ、監督官から鞭でたたかれる罰を受ける。
『壮絶な祭り』
毎年行われる祭りがあり、アルテミスの祭壇に供えられたチーズをめぐり少年たちは暴力での奪い合いをした。しかも年長者たちから鞭で打たれ続けながらである。
この祭りでは死者も出るほどの過激さであったが祭りには大勢の人々が集まり、少年たちの過激な戦いを見ながら笑ったという。
チーズを最も多く手にした少年には栄誉を称える称号が贈られた。
『スパルタ人の主食』
スパルタ人の食事に関しての関心は薄く、味も美味しくなかったようである。
スパルタ料理に「メラス・ゾーモス」というスープがある。それは塩、酢、豚の足と血で作られていた。スパルタ人は1つのテントで同じ釜の飯を食ったが、メラス・ゾーモスは主食で、与えられる肉はこれのみだった。
他の肉を食べたければ自ら狩りをするしかない。獲物を仕留めた者は、その肉を仲間と分けなければならなかったが、少量のみ自宅に持ち帰ることが認められた。スパルタ人が自宅で食事をできるのはこの時のみで、それ以外は固く禁じられていた。
この料理を食べたイタリア人はそのあまりの不味さに「スパルタ人が死を恐れぬ理由が分かった」と感想を漏らしたという逸話が残っている。
『毎日の試験』
食事が終わると、教師が訓練生に質問をする。この質問は現代の小論試験のようなもので、もっとも多い質問が、「町一番の男は誰か?」というものだった。
少年たちはそれぞれの答えを理由とともに述べねばならず、回答は機転が利いており、かつ素早く答える必要があった。
そうでなければ少々変わった罰が与えられた。冴えない答えをした少年は親指を噛まれたという。
さらに教師もこの問答が終わると審査され、厳しすぎたり、甘すぎたりすれば、罰として鞭打たれた。
教える側も教わる側にも非常に厳しいのがスパルタ方式である。
『勉学』
スパルタでは戦いに関する事以外の教育を受けることが禁止されていた。
字の読み書きは認められていたが、アテネでは数学や幾何学、哲学などが大切にされていたのと違い、スパルタではそれらの学問は兵士になるうえ害悪でしかないという事で禁止されていた。
戦士に求められることは相手を倒す技術と力、そして命令に絶対服従して行動する事である、それ以外は必要ない知識とされていた。
『模擬軍事訓練』
スパルタの軍事訓練は他国の訓練とは違い、より実践的であった。
スパルタにはヘロットというパレスチナ人の奴隷がいた。その扱いは酷く、クリュプテイアという軍事教練では、少年たちに戦う準備をさせるために、命すら奪われた。
スパルタの少年たちは短剣と食料を与えられ、できるだけ多くの奴隷を殺すよう命令される。夜になるまで待ち伏せしては、そこを通りかかった奴隷や働いている奴隷に襲いかかった。
少年たちにとっては殺しの訓練であり、奴隷たちにとっては自分たちの置かれた立場を思い知らされる出来事だった。
3 成人してから
スパルタの成人とされる年齢は18歳で、民会の全会一致により成人の仲間入りを果たす。
軍事に携わるようになると将軍の管理下に置かれ、毎日15人単位の夕食会に参加して、政治談義に加わった。
共同食事は団結を醸成する場であり若者を教育する場であった。
兵舎での生活を常としたため、妻をもっても夜には兵舎に戻る必要があった。
戦場で臆病と見なされた場合、全ての共同体から排除され顎髭の半分を刈りとられた姿で生きなければならなかった。
60歳になると兵役が免除された。
しかしスパルタで年を重ねて老死することは不名誉とされており墓に埋葬されることはない。
戦いの中で勇敢に戦い戦死した者だけが墓石のある墓に埋葬される。スパルタ人にとって死とは戦場で死ぬこと、それ以外は不名誉なのである。
女性の場合は戦争に赴くことはなかったが出産で死んだ女性には、戦死者と同じ敬意が払われ、墓石が与えられた。スパルタ人にとって、その女性は新しい兵士を生み出すために戦い、惜しくも命を落としたのと同義だったのだ。
スパルタ人の戦い方
スパルタ教育を受けたスパルタ人男性は個々の戦闘能力もとても高いが、彼らを象徴する戦い方がある。
「ファランクス」重装歩兵密集陣形である。
左手に盾、右手に槍を持った状態で密集し、自分の左半身と左にいる仲間の右半身を盾で守る。
最右翼にいる兵は右半身が無防備になるため、大抵は古参兵を前列へ配置し、若い戦士は戦列の中央に配置する、そして最右翼に最も強い兵士を配置する。
それ故に最右翼の戦士になることは名誉の証であった。
逆に左手に持った盾を失うことは仲間の命を危険にさらすことから、大変な不名誉とされた。
ファランクス同士での戦闘は、盾でぶつかって互いの重圧を押し付けながら槍で突き合い、前列の兵士が倒れたら後列の者がその屍を踏み越えて前進し穴を埋めた。
同等な横幅をもつ敵と対峙して前進する際、これらの兵士は盾のない右側面を敵に囲まれまいとして右へ右へと斜行し、隊列全体がそれにつれて右にずれる傾向があった。
攻撃の際は横隊が崩れない様に、笛の音に合わせて歩調をとりながら前進する。
このファランクスは武器の進化や戦術の進化で廃れていったが、現在の日本の機動隊も盾を持ち、隊員が隙間なく密集する陣形で暴徒に対して対応することから、現在でも有効な
陣形である。
スパルタ人の戦歴
1. テルモピュライの戦い
スパルタ人の戦果で最も有名なのは映画「300」で有名なペルシアとの「テルモピュライの戦い」であろう。
紀元前480年 当時世界最大であったアケメネス朝ペルシアとギリシア連合軍の戦争で、スパルタ人の王レオニダス率いる300人のスパルタ軍は圧倒的な数のペルシア軍(20万人ともいわれる)と狭い峡谷で対峙し、結果的には敗北するも3日間食い止めた。
2. プラタイアの戦い
紀元前479年8月、ペルシア残存勢力とペルシア側についたギリシアの諸ポリスに対して、スパルタ、コリントス、アテナイなどのギリシア連合軍が出撃し、これを撃退した戦いである。
右翼についたスパルタ軍だけで大半のペルシア兵を討ち取り、プラタイアの戦いでは、4万ほどのスパルタ軍が30万とも伝えられるペルシア軍を打ち破り、敗走させている。
スパルタの衰退とその後
スパルタの戦士は個々の戦力はおそらく歴史上最強であろう。
子供のころからの徹底した戦士としての教育、民族としての思想、政治体制、どれをとっても戦い為にのみ生きていた民族である。
しかしスパルタは変化しない保守的な民族でもあった。
時代を経ていくにつれて同じギリシア世界の新興国テーバイとの紀元前371年「レウクトラの戦い」で、エパメイノンダスとペロピダス率いるテーバイ軍の改良したファランクス「斜線陣」に敗北する。
紀元前3世紀以降、アカイア同盟やマケドニア、共和政ローマと戦ったが、「セッラシアの戦い」や「マンティネイアの戦い」、「ナビス戦争」に各々敗北。
この時期にスパルタは、名実共に独立国家としての地位を失った。
これらの戦いもマケドニアの「マケドニア式ファランクス(サリッサと呼ばれる6メートルを超える長い槍を使う)」共和制ローマの「レギオー(ローマ軍の軍団の編制)」といった新しい陣形や組織体制に対応できず、敗北した。
個々の強さと伝統的なファランクスのみで戦い続けたスパルタは、時代の変化に対応できず徐々に衰退していったのである。
グルカはネパールではありませんか?
修正させていただきました。
ありがとうございますm(_ _)m