かつて百姓の倅(※諸説あり)から立身出世を果たし、天下人にまで成り上がった豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)のエピソードは、多くの少年たちをワクワクさせて来ました。
その名前が段階に応じて出世ゲームのようにどんどん変わっていくのも、彼の人生をたどる上で面白いポイントですよね。
日吉丸(ひよしまる)⇒木下藤吉郎(きのした とうきちろう)⇒羽柴秀吉(はしば ひでよし)⇒平秀吉(たいらの ひでよし)⇒藤原秀吉(ふじわらの ひでよし)⇒豊臣秀吉
※諸説あり
【日吉丸】
幼名ですが、恐らく後付け。出世した秀吉は自身を「日輪の子」とし、自分と顔が似ていた猿が日吉大社(山王権現)のお使いであることから。【木下藤吉郎】
正室おね(高台院)の実家である名字を称しました。藤は藤原氏(自称)、吉は日吉丸から流用したものと思われます。【羽柴秀吉】
主君・織田信長(おだ のぶなが)の重臣である丹羽長秀(にわ ながひで)と柴田勝家(しばた かついえ)にあやかるため、一文字ずつとって名字にしました。秀の字は、もしかしたら「日出(日の出の勢い)」の音から選んだのかも知れません。【平秀吉】
本能寺の変で信長が横死した後、織田と同じ平氏である=覇業の後継者に相応しいことをアピールする目的で称したと考えられます。
ちなみに、平は(本来は朝廷から賜るべき)姓であって普段用いる名字とは異なり、普段は羽柴秀吉のままでした。【藤原秀吉】
関白の位に就くには藤原氏の一族であるのが望ましい(実質的に必須条件)ため、公卿の近衛前久(このゑ さきひさ)に養子入りして藤原姓を称しました。
出自の卑しい秀吉を養子に迎えるなんて(周囲から何を言われるか分かったものじゃないし)嫌だったでしょうが、何かよんどころない事情があったのでしょう。
なお、秀吉は武士の棟梁である征夷大将軍の位を望み、その必須条件である源氏の一族になろうと滅亡した室町幕府の元将軍・足利義昭(あしかが よしあき)の養子になりたいと申し出ていますが、流石に断られています。
そして天正14年(1586年)、ついに豊臣の姓を賜ったのですが、時代が下るにつれて詳細な経緯を知る者も少なくなり、また講談や物語などの影響から、伝わる内容が変わっていったりすっぽ抜けたりしていくのでした。
特に秀吉の出自や若い頃についてはカリスマ性を保つ意図から積極的に隠しており、いまだに諸説が入り乱れています(本稿で紹介しているのも、あくまで一説です)。
今回はそんな一説、江戸時代の武士道バイブル『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』において秀吉の改名エピソードがどのように伝えられているのか、紹介したいと思います。
朝比奈三郎をひっくり返す!
一二 太閤秀吉奉公の始、名字名乗を撰ばれ候。「當時天下の鑓柱(やりばしら)と云ふは、丹羽五郎左衛門長秀、柴田修理亮勝家なり。我が鑓を取り、両人を手に入れるべし。然らば一字づつ取りて羽柴と號(号)し、我が気に入りて類もなき名なれば、藤吉郎と附くべし。古今の勇士に我が心に叶ひたるは朝比奈三郎吉秀なり。仍(よっ)て秀吉と名乗るべし。」と思ひ立てられ候なり。
※『葉隠』巻十より【意訳】
豊臣秀吉が奉公するに当たって、名字をつけることにした。
「今、織田家を支える重臣と言えば、丹羽長秀と柴田勝家だ。いつかこの二人を配下に従えたいものだ。だから一文字ずつとって羽柴としよう。で、通称はとても気に入っている藤吉郎にしよう。そして諱は古今無双の豪傑として憧れている朝比奈三郎吉秀(あさひな さぶろうよしひで。義秀)をひっくり返して(彼をひっくり返せるほどの豪傑となれるように)秀吉としよう」
と思いついたそうな。
表向きは「ご両名にあやかりたい」と言っておきながら、腹の中では「こいつらを従え、天下に号令してやろう」と野心を燃やしていた……秀吉らしいと言えばらしいですが、天下を取ったという結果から後づけしたような気がしないでもありません。
また、藤吉郎については「とても気に入っている」と恐らく直感で決められ、そして秀吉は「天下無双の勇士・朝比奈三郎吉秀をひっくり返せるほどの豪傑になりたい」という思いからつけたようです。
ちなみに、朝比奈三郎吉秀(義秀)とは、鎌倉幕府の御家人・和田義盛(わだ よしもり。「鎌倉殿の13人」の一人)の子供で、数々の武勇伝(※)を残しています。
(※)例えば、海に潜ってサメを素手で退治したとか、一晩で山を切り拓いて道(現:朝夷奈の切通し)を作ったとか、もちろん史実でも和田合戦(建暦3・1213年)で大活躍しました。
秀吉の活躍した時代から100年以上の歳月が経ち、また中央や秀吉の地元(現:愛知県)から遠く離れた九州・佐賀藩(現:佐賀県)では、「木下藤吉郎」時代が抜け落ち、織田家に奉公した最初から羽柴藤吉郎秀吉と名乗っていたものと認識されていたのでしょう。
それにしても「朝比奈三郎義秀をひっくり返す」とは随分と大きく出たもので、こういう無邪気な豪快さも、秀吉らしいと言えば、やはりらしいですね。
真偽のほどはともかくとしても、色んな人が色んな想像を働かせて歴史が語り継がれてきたことを感じられるエピソードとして、とても興味深く楽しめます。
※参考文献:
和辻哲郎編著『葉隠 下』岩波文庫、1982年10月
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