古来より、人間は動物と一緒に生活をしてきた。狩猟のために犬を連れていったというような「パートナー」としての動物や産業としての家畜を含めれば、その事例は地球上ほぼすべての民族・文化に動物との関わりを見出すことができるだろう。
現代社会においても、人はペットとして、また、産業として動物と共に生活をしているわけであるが、動物が適切に人間と共生するために、法・条例などによる一定の規制がある。
さて、歴史上、動物に関わる法として有名なものに「生類憐れみの令」がある。
この法には様々な否定的評価が寄せられることが多かったが、はたして「生類憐れみの令」はどのような目的で施行された法であったのか、この記事で詳しく見てみよう。
目次
生類憐れみの令とはどのような法だったのか
生類憐れみの令は、江戸時代の第5代将軍・徳川綱吉によって制定された法令だ。
実は今日で言うところの「○○法」という単一の法令として制定されたわけではなく、綱吉が生類(生き物)を憐れむように、との趣旨で発出した諸法令を総称してこのように呼んでいる。
この生類憐れみの令は、名前のとおり「生類(生き物)」を「憐れむ」ための法令であったわけであるが、その「生類」というのは主に「犬」にフォーカスして語られることが多い。しかし、実際には犬だけでなく猫、鳥、魚類、貝類、昆虫類といった生物のほか、人間も対象とされていることは見落としてはならない。
なかでも、病人や高齢者、そして捨て子といった人々もこの生類憐れみの令の対象であったのだ。
「過度な博愛主義」に基づく法だったのか?
犬や猫が対象とされたという意味で生類憐れみの令を解釈しようとすると、いかにも「人々が生物を大切にするように」という、いわゆる「博愛主義」を根拠として生類憐れみの令が制定されたように思える。もちろん、そのような側面があったことは否定できないだろう。
綱吉は儒教を熱心に学んでおり、儒教的な「仁心」を人々に育ませるための令であったという分析がある。生類憐れみの令のもととなった政策として、天和2年に犬を虐殺した者が極刑に処されたケースがある。しかし、犬を虐殺した場合に重罪に処されるのは天和2年のこの事例が初ではなく、実は従来から犬殺しは重罪であったとする見方もある。
また、そもそも生類憐れみの令は綱吉の個人的な博愛主義ではなく、当時の世相・社会状況に対する対策として発出されたものだという分析があり、近年ではこちらが注目されている。
当時の時代背景と「生類憐れみの令」との関係
では、当時のどのような社会状況が「生類憐れみの令」を必要としたのであろうか。簡単に言えば、「生物の死」というものが身近にあった世の中であったということだ。
まず着目するべきは、当時は現代と異なり輸送や移動にも動物が使用されたという点である。牛馬は当時の人々の車であり、ときにはトラックであり、ときには耕運機であった。現代であれば車が故障すればスクラップにするが、当時の牛馬のいわゆる「行き倒れ(斃死)」については、道端にそのまま死体が放置されていたことも多かったという。
また、武士が弓射の的として鶏を使用したり、新しい刀を手に入れた人が「試し切り」として野良犬、ときには人を斬ったというエピソードもある。こうした行為は治安の悪化も問題であるが、他にも遺体から発生する伝染病といった公衆衛生上の問題もあった。
無論、当時の衛生観念や医学のレベルから考えるに、細菌感染症の防止を目的として生物の死体が町中にあることを避けようとした、とは考えにくいが、城攻めなどの際に場内に斃死した動物を投げ込むといった戦術は戦国時代から積極的に行われていたため「死体が近くにあると、病にかかる」といった程度の認識は当時の人々にも存在していたようだ。
綱吉は直接公衆衛生を意識したわけではないかもしれないが、このような「面白半分」に殺される生物の死体が生まれづらい「生類憐れみの令」は、意図せず当時の人々の生活状況を結果的に改善した可能性がある。さらに、生類憐れみの令は人も対象にしていたというのは先に述べたとおりであるが、こと「捨て子」に関しては、綱吉の死後にも「捨て子禁止令」が続いたこともあり、「子どもの生命を重要視した、当時としては先進的な政策であった」とする向きもある。
また、人・動物を問わず生命を大切にするという趣旨の令があえて出された背景には、未だ戦国時代の風潮が抜けない世間に対して、今後は生命を尊重した治世としていくのだというメッセージ性のある令だとする解釈もある。
綱吉が「動物好き」のためにできた、「動物愛護法」だったのか
綱吉を指して、「犬公方」「犬将軍」などと呼ぶ向きもある。綱吉が戌年生まれであること、また、生類憐れみの令の発出にあたって僧隆光のすすめによって犬を大切にさせたというエピソードから呼ばれた通称である。「犬公方」という通称と、「戌年生まれ」、そして「生類憐れみの令」にはいかにも関連性があり、特に将軍が全国的に令を発出するという行為はある種センセーショナルだ。まして、その内容が「生物を大切にするように」という趣旨のものであれば、面白おかしく「犬好きの将軍が犬を大切にさせた」と語るのに都合がよい。
綱吉は「水戸黄門」のほか、「忠臣蔵」でも悪役となっており、これらの要素が合わさると、「人より犬を大切にした無能将軍」といった評価となってしまうのもやむを得ないだろう。無論綱吉の政策には、貨幣改鋳についてや御家人大量処罰など批判もあるが、後年の自然災害・大火などを除けば、むしろ施政については後世の範となったという見方もある。経済についても好景気であり、また多くの元禄文化を担う人々が生まれている。
「生類憐れみの令」についても、先に挙げた内容を加味して検証すれば、必ずしも単なる「動物偏重」的な政策ではなかったのではないかという見方が浮かんでくるだろう。
なぜ綱吉や生類憐れみの令は否定的な評価が多いのか?
先の解説のとおり、綱吉の治世は生類憐れみの令も含めて否定的な評価が多い。
生類憐れみの令はそれそのものが当時の人々の意識にそぐわなかった可能性もあるが、鶏を射殺した家来は死罪、子犬を捨てた者は市中引き回しの上獄門と、罪に対しての刑が非常に重かったことも見落とすことはできない。また、1685年から随時発出された生類憐れみ令は、以降24年間で100以上にも及び、徐々に規制が強化されたことも影響しているだろう。
綱吉の政策全般については、後年の天災(火山の噴火)や大火が、当時の人々に「将軍への天罰」と解釈されてしまったのは不幸というほかない。また、テレビドラマでも悪役として描かれることが多い綱吉は、どうしてもイメージとして優れた人物を描きにくいところなのだろう。
しかし、当時綱吉に謁見したドイツ人医師は「非常に英邁な君主であるという印象」を受けたとしているほか、近年では綱吉再評価の研究も進んでいる。
おわりに
人と動物は、パートナーとして長い時間をかけて関係を育んできた。そのような動物がみだりに虐殺されることは、現代人にとっては憤りを感じるものであろう。
しかし、いまだ戦国の世の観念が抜けない江戸時代初期という、「人を含めた生物の死」が身近にある社会情勢では、「生類憐れみの令」は、当時の人々にとって「不自然」な令であったのかもしれない。しかし、江戸の泰平の世の訪れとともに日本という国は長く戦乱からは遠ざかることとなる。綱吉が個人的に動物が好きであったかどうかはさておき、綱吉の治めた元禄の世では、人々の生活と「生物の死」というものの距離を空けさせようとしたのかもしれない。
そのように考えれば、「天下の悪法」とまで呼ばれる「生類憐れみの令」や綱吉自身にも、これまでの印象とは異なった見方をすることができるだろう。
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