江戸城内で6番目の刃傷事件
佐野政言(さのまさこと)事件 とは、江戸城内で起きた6番目の刃傷事件である。
当時、絶大な権勢を振るった老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)の子である若年寄の田沼意知(たぬまおきとも)が、旗本・佐野政言(さのまさこと)に殺害された。
佐野政言は3度も「覚えがあろう!」と叫んだというから、かなりの動機があったと言われる。
傷を負った田沼意知は致命傷には至らなかったが、医師が応急処置に対処できずに8日後に死亡した。
旗本・佐野政言は切腹・改易となったが擁護する江戸っ子も多く、いかに田沼家が嫌われていたのが分かる事件でもある。
今回は権勢を手にした老中の子・田沼意知が殺害された「佐野政言事件」について解説する。
田沼意知とは
田沼意知(たぬまおきとも)は、寛延2年(1749年)遠江国相良藩主・田沼意次(たぬまおきつぐ)の嫡男として生まれた。
父・田沼意次は600石の旗本から第9代将軍・徳川家重の小姓となり、順調に出世し1万石の大名に取り立てられた。
家重の死後、第10代将軍・徳川家治から厚く信任され破竹の勢いで昇進し、明和4年(1767年)に側用人へと出世し2万石の相良藩主となり、明和6年(1769年)に老中格となる。
安永元年(1772年)相良藩は5万7,000石に加増され、600石から5万7,000石の大名となり、側用人から老中になった初めての人物となった。その権勢は「田沼時代」と呼ばれ、まさに飛ぶ鳥を落とす立身出世の人物であった。
その世子である意知は、明和4年(1767年)19歳の時に従五位下大和守に叙任され、天明元年(1781年)には奏者番、天明3年(1783年)には世子の身分のまま若年寄となった。
大名の身分でないまま、ここまで出世することは珍しく5代将軍・綱吉時代の老中・大久保忠朝の子・忠増以来の異例の大出世である。
老中である父が奥詰めも同時に果たしたように、若年寄という身分でありながら奥詰めも許されたのは父・意次の権勢が絶大だったからである。
父・意次の政策は幕府の利益や都合を優先させる政策で、諸大名や庶民の反発・反感を浴びていた。
田沼の治世は、役人の間で賄賂や縁故による人事が横行し、武士本来の士風を退廃させたと批判が起きたのである。
このような世相の中で都市部の治安は悪化し、一揆や打ち壊しも激化した。そして江戸商人への権益を図り過ぎたことを理由に贈収賄疑惑を流されるなど、次第に田沼政治への批判が高まっていった。
意知は大名でもないのに自分の屋敷を構え態度も横柄で、父同様に世間から嫌われていたという。
佐野政言とは
佐野政言(さのまさこと)は、宝暦7年(1757年)旗本・佐野政豊の子として生まれた。10人兄弟の末っ子だったが、残り9人は皆娘だったので政言が嫡男であった。
佐野家は藤原姓足利一族の由緒正しき武士の家系で、三河以来徳川家に仕えた譜代である五兵衛政之を初代とし、代々番士を務めた家であり、政言は6代目にあたる。
政言は安永2年(1773年)17歳で父から家督500石を相続し、安永6年(1777年)に大番士、翌年には新番士となる。
天明3年(1783年)の冬には将軍・家治の鷹狩りに供弓として選ばれる名誉を受けたが、政言は鷹1羽を射取りながら褒賞にあずかれなかった。
これは意知が裏で、褒賞にあずかれないようにしたのではないかとされている。
実は田沼家は佐野家の家来筋にあたる。ある時、田沼家は佐野家から家系図を借りたが、そのまま返さなかった。
田沼家は名門の佐野家の流れを汲むと自称していたが、実際は佐野家の支流の支流であった。そこで田沼家(意次と意知)が勝手に家系図を書き換えようとしたのではないかとされている。
佐野家も田沼家を利用して出世を目論み、総額620両相当の金品を贈ったがなかなか出世はかなわず、田沼家は何度も催促に来る政言を煙たがっていたという。
その後、佐野家の領地にある「佐野大明神」が、意知の家臣により「田沼大明神」に勝手に変更され、横領されていることが発覚する。
また、佐野家の旗が田沼家の定紋である七曜紋だったために、取り上げられてしまう。
このようなことがあり、政言は意次・意知親子に強い恨みを抱いていた。
刃傷事件
天明4年(1784年)3月24日、意知は夕刻になって執務時間が終わり、御用部屋を出て下城しようと江戸城内の廊下を歩いていた。そして中ノ間から桔梗の間へ向かう時に、待ち伏せていた政言が「覚えがあろう!」と3度叫び、意知を斬りつけた。
意知は脇差を抜いて応戦したが防ぎきれず肩などを斬られ、近くの桔梗の間に逃げ込んだ。
この刃傷事件で後に処罰された人数が21人だったことから、周りに人が大勢いた中での刃傷だったとされている。
それほど大勢いたならば簡単に政言を取り押さえられそうなものだが、政言は追撃し桔梗の間に倒れている意知の股を刺した。
刺し傷は3寸5分(約10cm)で骨に達したという。その後、大目付の松平忠郷が政言を取り押さえ、目付の柳生久通が政言の手から脇差を落とした。
幕府の公式記録「徳川実記」では、意知が脇差で防いだことになっている。事件の被害者であっても武士が相手から逃亡し背後から斬られることは不覚であったため、改ざんされたのではないかという説もある。
また「徳川実記」では政言の狂乱(乱心)が理由とされているが、政言は「七箇条の口上書(果たし状)」を懐中に持っていたという。
意知は屋敷に運ばれ医師が治療にあたったが、政言は傷が治らないように脇差の刀に獣の血をつけ、トリカブトの根を塗っていたという。
あまりのことに動揺した医師はそれを見抜けずに治療を誤ってしまい、刃傷事件から8日後の4月2日に意知は死亡した。
翌日の4月3日に政言は切腹し、佐野家は改易となった。
世直し大明神
この刃傷事件は、田沼親子に対して世間で不満が広がっていた時に起こった。
人々は政言を賞賛し「世直し大明神」と呼んでもてはやし、政言の墓には参拝者が絶えなかったという。
改易となった佐野家の遺産は父・政豊に譲られることが認められた。
偶然なのか高止まりだった米の相場は、切腹の翌日から下落し財政は逼迫した。
この刃傷事件以来、嫡男を亡くした意次は次第に力を失くしていった。意知の葬列では石や罵声を浴びせられたという。
そしてこの事件の2年後の天明6年(1786年)将軍・家治が亡くなり、意次は後ろ盾を亡くして幕政から失脚した。
黒幕説
政言の処分が軽かったことで、噂好きな江戸庶民の間で様々な憶測が飛び交った。それは黒幕がいたという噂である。
最初に意知が刺された時点で周りの者が取り押さえていれば、意知は死なずに済んだかもしれない。
この刃傷事件で最も得をしたのは、反田沼勢力の幕閣たちである。
意次の後ろ盾である将軍・家治が在職中に、田沼政治が終焉することは考えられなかった。
そして旗本から老中にまで出世し権勢を誇った田沼意次・意知親子政権下での譜代大名たちの出世は、とうてい見込めなかった。
その為、様々な憶測が乱れ飛んだ。
「誰かが佐野政言に事件を起こさせたのではないか?」
直接手を下すより、田沼親子に元々恨みを持つ佐野政言に実行させれば処罰は最小限で済み、両得という形になる、
この政権交代で一番得をしたのは松平定信と言われている。そして佐野家は幕末に再興しているのである。
おわりに
「佐野政言事件」は将軍よりも力があると言われた老中・田沼意次の息子・意知が殺害され、2年後に田沼政治が終焉したことで世間の注目を集めた事件となった。
黒幕説・恨み説など噂は流れたが、幕府はいつも通り「乱心」とした。
この事件の真相は謎のままである。
620両の賄賂を無視され、これだけ酷い仕打ちを受ければ半端ない恨みがあったはず、それがトリカブトの毒に現れている。
しかし、田沼親子が嫌われていたとは言え「世直し大明神」はどうなのか?ただ黒幕説もありそうですね!