一の谷の合戦
寿永2年(1183年)「源頼朝の9番目の弟が上洛しようとしているらしい」「本名は分からない」と、時の関白の日記に書かれた名前も知られていない人物こそ、稀代の英雄・源義経であった。
当時、あくまで頼朝の弟でしかなかった25歳の青年は、激動の時代で歴史に名を刻んでいくことになる。
栄華を極めた平清盛が亡くなると、各地で平氏に反発する勢力が挙兵し、清盛の跡を継いだ平宗盛ら平氏一門は木曽義仲の攻撃によって都落ちしていた。
その後、木曽義仲の軍勢が京の都でやりたい放題し、後白河法皇の怒りをかったため、頼朝は弟の九郎(義経)を代官として都に送ったのである。
寿永3年(1184年)義経は東国から援軍を率いてきた兄・源範頼と合流して宇治川の戦いで義仲軍に勝利して入京し、粟津の戦いでついに木曽義仲を討ち取った。
この間に平氏は西国で勢力を回復し、福原(現在の兵庫県神戸市)まで迫っていた。
義経は範頼と共に平氏追討を命じられ、同年2月7日に始まった一の谷の合戦で、義経は一躍その名を轟かせるようになる。
一の谷の合戦とは、1万を超える平氏の軍勢を源氏がわずか2~3,000騎で攻め落とし、奇跡的な勝利を得た戦いである。
平氏は福原に2重・3重にも防壁を張り巡らせていたが、範頼軍は生田口から攻撃し、義経は精鋭部隊70騎ほどを率いて急峻な崖の上の鵯超(ひよどりごえ)にいた。
そこは猪・鹿・兎・狐の他は通ったことのない険しい所だったという。
義経は鞍を置いた馬を追い落した。足を折って転げ落ちる馬もあれば、何事もなく下る馬もあり、3頭が平盛俊の屋形の上に下り着き、身震いしていたという。
それを見た義経は「義経を手本にせよ」と言って30騎ばかりを駆け下ろさせた。その後、大軍が一気に駆け下り急襲し、慌てた平氏が大混乱して源氏軍の大勝利だったとされている。
これが「鵯越の逆落とし」の通説である。
だが、これには大きな矛盾があるとされている。
ある資料には「義経は一の谷を攻め落とした」と書かれている。
一の谷は瀬戸内海に面し、後ろには六甲山系の断崖が迫っている侵入経路が限られた天然の要害であり、平氏は本拠地・福原を守るために東西に強固な防衛ラインを築いていた。
その西側の拠点が一の谷であった。
一方、鵯越は平氏の本拠地・福原のすぐ近くの一の谷とは直線距離で約7kmも離れている。
「鵯越と一の谷、義経は一体どちらに居たのだろうか?」と、今まで多くの説が唱えられ、「現実に存在しない架空の戦場だったのではないか?」という説まであるのだ。
近年、義経が「鵯越の逆落とし」を実行したとされる場所が特定された。
歴史学者の前川佳代さんが残された文献を基に一の谷を調査した結果、義経がいたのは「鉢伏山」付近だとしたのである。
鉢伏山は一の谷の海岸線のすぐ後ろにそびえている山である。須磨浦公園からロープウェイでのぼることのできる位置にある。
山中にある古来峠には国境を示す標識が立てられることが多く、その場所は「ひよ」と呼ばれ、鵯(ひよどり)の「とり」も、尾根道のくぼんだ部分鞍部を意味する言葉である。
この山道は地元では古くから「義経道」と言い伝えられていた。
土質が花崗岩の砂磔層で覆われた場所であり、傾斜40度を超える切り立った断崖、斜面は麓付近まで連なっていて、傾斜や斜面の状態は文献と一致しているのである。
義経は「ひよ」と呼ばれる峠の山道から下った崖から逆落としを敢行し、予期せぬ方向から平氏を攻撃したという。
だが、東国から派遣されたばかりの義経が「なぜ地形を利用した奇襲作戦を立案できたのだろうか?」という疑問が残る。
この疑問を解く鍵となる文書がある。それは義経が合戦前に送った書簡である。
その宛先は畿内に拠点を置く在地の武士たちで、義経は領地争いで平氏に不満を持っていた武士たちに共に一の谷に出陣するように呼びかけていたのだ。
つまり、義経が間道や裏道を知っていたのは、地元の武士たちの協力があったと推測できる。
「鵯越の逆落とし」をする前に義経は軍勢を二隊に分け、主力部隊を侍大将・土肥実平に預けて一の谷の西の攻撃に向かわせた。
そして、高尾山(現在の神戸市北区)辺りで再び軍勢を二手に分けて、多田行綱にその主力を委ね、義経は案内役の地元の武士と精鋭70騎を率いて逆落としを行なったのである。
※多田行綱の部隊が山手の傾斜地から平氏の山の手の陣を落としたという説もある。
こうして義経は、一の谷合戦で奇襲をかけ西側の平氏の防衛ラインを突破、それに呼応した源氏軍本隊が福原を攻め落として劇的な勝利を飾った。
かくして、義経は日本史に燦然と輝く英雄の道を歩き始めたのである。
この場所は歴史家の中でも意見が分かれたところだが、一の谷ではないと歴史好きの私は思っていたら、来ました!
そんな「義経道」という峠の小道があったのですね!最初に下った馬上の騎士たちが失敗した後に義経が駆け下りたというのも何となく分かる。神戸に行ったら見に行きたいと思います。草の実堂さんありがとう。