戦国時代

戦国時代の日本人は外国人にどう見えていたのか? 「ザビエル、フロイスらの記録」

日本に初めてキリスト教を伝えたのは、イエズス会の宣教師「フランシスコ・ザビエル」とされている。

天文18年(1549年)8月、2人の弟子やアンジローという日本人らと薩摩に上陸した。

彼らが見た日本はどのような時代だったのか?

マラッカへ逃げた日本人

ルイス・フロイス
【※フランシスコ・ザビエル像。17世紀初期に描かれたもの】

ザビエルとともに帰国したアンジローは薩摩出身で、殺人を犯したあとにポルトガル船でマレーシアのマラッカへやってきた日本人である。

逃亡中に罪の意識にさいなまれ、キリスト教に改宗していた。

ザビエルは、アンジローについて

もしも、日本人すべてがアンジローのように知識欲が旺盛であるならば、新しく発見された諸地域の中で、日本人はもっとも知識欲の旺盛な民族であると思います

と記している。

ザビエルは鹿児島で2ヶ月半過ごした後、インド・ゴアのイエズス会士に向けて次のような書簡をしたためている。

『私がこれまでに会った国民の中で、キリスト教にしろ異教徒にしろ、日本人ほど盗みを嫌う者に会った覚えはありません。日本人はどんなものでも神と思って拝んだりするようなことはしません』(ザビエルの見た日本)

落胆と驚き

戦国時代の日本人は外国人にどう見えていたのか?
【※ザビエルが拝謁した島津貴久】

ザビエルは、薩摩を治める島津貴久(たかひさ)に謁見し、宣教の許しを得た。だが、鹿児島の仏僧たちが貴久に陳情し、鹿児島での布教が難しくなる。

そこで薩摩を去って平戸に入り、さらに山口へと向かった。

天文20年(1551年)1月、ザビエル一行は京への上洛を果たす。だが、都は想像以上に荒れ果てており布教どころではなかった。しかも、天皇や将軍に拝謁しようとしたが叶わず、比叡山延暦寺の僧との宗教論争を試みるが、これも拒まれる。

そこで山口に向かって布教活動を行ったが、同地での布教の様子を次のように語っている。

『キリシタンは信じられないほど私たちを大切にしてくれます。終始、私たちの
家に来て、何か手伝えることはないかと尋ねます。日本人はもともと親切な国民ですが、なかではキリシタンはとても良い人々です』(ザビエルの見た日本)

日本を忘れぬザビエル

その後、ザビエルは九州の豊後で布教活動を行い、天文20年11月に帰国の途についた。

だが、日本をさってからも、ザビエルは日本の思い出を手紙に記しており、たとえば天文21年(1552年)1月29日付のイエズス会宛の手紙では、日本人の知識欲についてこう述べている。

『日本人はどの国民より何事でも道理に従おうとします。日本人はいつも相手の話に聞き耳を立て、しつこいほど質問するので、私たちと論じ合うときも、仲間同士で語り合うときも、話はまったく切りがありません』(ザビエルの見た日本)

日本を離れたザビエルは、一度インドに帰還し、新たに中国で布教活動を行うつもりだった。

しかし途上で病気を患い、天文21年12月3日に上川島(じょうせんとう/中国広東省の島)でこの世を去った。

その遺骸は、インド・ゴアのボムジェス教会に安置されており、10年に1度、棺が公開される。

ルイス・フロイス 上陸す

戦国時代の日本人は外国人にどう見えていたのか?
【※ルイス・フロイスが上陸した長崎の横瀬浦港】

生前、ザビエルはイエズス会本部に宣教師の派遣を要請し、それに応じて多くの宣教師が来日した。

弘治2年(1556年)には、ポルトガル人宣教師のガスパル・ヴィレラが来日し、布教活動に努めた。彼

は、商人の町である堺も訪れているが、「堺の町ははなはだ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス(ヴェネツィア)市のごとく執政官により治めらる」と評している。この記述がヨーロッパにも伝わり、堺は「東洋のベニス」として広く知られるようになった。それは、当時の世界地図にも記載されるほどのことである。

また、『日本史』を著したルイス・フロイスも、永禄6年(1563年)に上陸を果たした。

彼が上陸した長崎の横瀬浦(よこせうら)は、ポルトガルとの交易で栄えた貿易港だったが、領主の大村氏の内紛で焼き払われてしまう。

飽くなき日本人の知識欲

一方、ザビエルとともに来日したコスメ・デ・トーレスは日本にとどまって布教活動を続け、多くのキリスト教信者を獲得した。

トーレスもまた日本文化を尊重し日本式の暮らしを取り入れたが、こうした手法が功を奏したのである。

彼は教団への報告書に、日本人について次のように記している。

『日本人はスペイン人に劣らず、あるいはそれ以上に理性によって身を処する。そして知識欲が盛んである。この国の豊かさは、スペイン、フランス、イタリアを凌いでいる。キリスト教団にある一切のものがこの国にある』

晩年のトーレスは着物で暮らすほど日本に馴染んでいたが、後任のポルトガル人宣教師フランシスコ・カブラルは、日本人に対して高圧的な態度で接した。

これはカブラルが教会を武装し、日本を征服するための拠点にしようと考えていたためだが、やがて日本人信徒との溝が深くなったところで解任されている。

最後に

天正7年(1579年)に来日して日本人を蔑視するカブラルを解任したのは、巡察使のアレッサンドロ・ヴァリニャーノであった。

彼は、天正遺欧少年使節の派遣に尽力し、自身もインドのゴアまで同行する。

その後も何度か再来日し、天正19年(1591年)には、欧州から帰国した少年たちを連れて豊臣秀吉との面会を果たしたのである。

参考文献:
宣教師ザビエルと被差別民
完訳フロイス日本史

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草の実堂編集部

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