江戸時代

関ケ原の戦いで西軍についたのに復活できた武将たち

関ケ原の戦い

関ケ原の戦いで西軍についたのに復活できた武将たち

※関ヶ原の戦い wikiより

慶長5年(1600年)に行われた、所謂・天下分け目の合戦と言われているのが「関ヶ原の戦い」です。
但しこの戦は豊臣対徳川の戦いではなく、あくまで豊臣政権の下で両者が主導権を争う戦いでした。

石田三成を事実上の総大将とした西軍は、亡き太閤・豊臣秀吉の意志を次ぐことを標榜し、その命に従わない徳川家康の専横を配すため上杉家と呼応して、家康が上杉の所領会津方面に出陣したところを狙い、西で挙兵しました。

一方の家康は、豊臣政権の大老の筆頭として、世を乱す挙兵をした三成らを討つという名目で所謂東軍を率いて会津攻めから西へと反転、三成を倒すべく戦いに挑みました。

この結果、敗北した西軍に与した大名・武将たちは大幅な領地の削減や没収を余儀なくされます。

よく知られているのは、毛利家・中国地方8か国(112万石)から防長2か国(29万8千石)、上杉家・陸奥会津(120万石)から出羽米沢(30万石)への大幅な減封でしょう。

こうした処分が行われる中で、一旦改易されたにも関わらず、その後に復活を遂げた武将たちもいました。

大名に復活した11人

関ヶ原の戦いの際に西軍に与しながら、戦後一旦は改易されたものの、後に1万石以上の大名として復活した武将が11人存在します。

西軍に与した大名・武将の総数は約170人のため、その復活の確率は、凡そ6.4%・約15人にひとりの割合であり、非常に稀有な存在といえます。

1,岩城 貞隆:陸奥磐城平120,000石 →信濃川中島 10,000石(1616年新封、後・吉隆の代に出羽亀田2万石へ加増)
2,織田 信雄:大和国内 18,000石 →大和宇陀・上野小幡 50,000石(1615年新封、大和国の国主格待遇も付与)
3,木下 利房:若狭高浜 20,000石 →備中足守 25,000石(1615年新封)
4.来島 長親:伊代来島 14,000石 →豊後森 14,000石(1601年新封)
5.新庄 直頼:摂津高槻 30,000石 →常陸麻生 30,000石(1604年新封)
6.相馬 義胤:陸奥中村 60,000石 →陸奥中村 60,000石(嫡男・利胤に1604年再封)
7.高橋 直次:筑後内山 18,000石 →筑後三池 10,000石(1614年に5,000石で新封、1622年5,000石加増され大名復帰)
8.滝川 雄利:伊勢神戸 22,000石 →常陸片野 20,000石(1603年新封)
9.立花 宗茂:筑後柳河 132,000石 →陸奥棚倉 10,000石(1603年新封、1621年旧領である柳河10万9,000石に加増転封)
10.丹羽 長重:加賀小松 125,000石 →常陸古渡 10,000石(1603年新封、1627年陸奥白河10万700石に加増後、陸奥二本松へ転封)
11.蒔田 広定:伊勢雲出 10,000石 →備中・河内国内 10,000石

これらの11人の中でも、最終的に10万石を超える所領を拝したのは、丹羽長重(にわながしげ)立花宗茂(たちばなむねしげ)との2人のみとなっています。

そもそも他の武将たちは元の所領も少なく、10万石以上を領していたのは、丹羽長重・立花宗茂・岩城貞隆のみでした。

丹羽長重(にわながしげ)

※白河藩主丹羽長重 wikiより

丹羽長重は、元亀2年(1571年)、織田信長の重臣・丹羽長秀の長男として生まれました。

信長の死後は父・長秀と共に羽柴秀吉に臣従、最大時には越前国・若狭国・加賀国2郡123万石を与えられていました。

父・長秀の死後その領地を受け継ぎますが、その力を恐れた秀吉から度重なる減封を強いられたとされており、天正15年(1587年)には加賀松任4万石にまで削減されたと伝わります。

しかし、北条氏との小田原征伐での功績から、加賀小松12万石まで加増され関ケ原の戦いを迎える事になります。

長重は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍に与し、東軍の前田利長と(浅井畷の戦い)を繰り広げます。このため戦後に改易となりました。

しかし3年後の慶長8年(1603年)に常陸国古渡1万石を領して大名に復帰します。

次いで慶長19年(1614年)からの大坂の陣でも武功を挙げたことで、1617年、徳川第2代将軍・秀忠の御伽衆(おとぎしゅう)に、自らより年長で且つ格上の細川興元、佐久間安政、立花宗茂らと互して選ばれます。

その後、元和5年(1619年)に常陸国江戸崎2万石、元和8年(1622年)に陸奥国棚倉5万石へと加増移封されます。
寛永4年(1627年)に跡継ぎが絶えた会津藩の蒲生氏が改易されると、その後を受けて加藤嘉明とともに長重が移され、長重は白河10万700石を領すことになりました。

幕府からの信任が厚い武将であったことが伺えますが、殊に築城の技術に長けていたと伝わっています。

立花宗茂(たちばなむねしげ)

※立花宗茂の晩年の肖像画 wikiより

立花宗茂は、丹羽長重と並び10万石を超える所領を回復した武将です。

特に宗茂が特筆されるのは、召し上げられた領地を最終的に回復した唯一の武将であるという点です。

宗茂は、永禄10年(1567年)に、大友家重臣であった吉弘鎮理(のちの高橋紹運)の長男として生まれ、元服後に高橋統虎を名乗ったと
伝わっています。

天正9年(1581年)統虎は、同じく大友家の重臣・戸次鑑連(立花道雪)の家督を継承していた娘・誾千代と結婚、婿養子となりました。

以後、筑前の立花山城を居城とした宗茂は、養父・立花道雪と実父・高橋紹運らとともに、大友家の武将として、龍造寺家、島津家と九州の覇を賭けた戦いを繰り広げます。しかし大友家が次第に勢力を弱める中、島津家が台頭、主家の大友宗麟(おおともそうりん)は秀吉に助けを請います。

居城立花山城まで島津に攻め込まれていた宗茂でしたが、秀吉軍の九州征伐に呼応し反撃を開始、島津を薩摩まで撃退する働きを見せます。

この武功が秀吉に認められ、主家大友氏から独立した大名として、筑後柳川13万2000石を領する秀吉の直臣に取り立てられ、その後の朝鮮出兵においても活躍したと伝えられています。

関ケ原の戦いで西軍についたのに復活できた武将たち

※宗茂を讃える錦絵 江戸末期、歌川芳虎筆 wikiより

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、東軍の大津城を攻めています。しかし関ケ原での西軍の敗報が伝わると、大阪城へと退却、総大将の毛利秀元に籠城戦を進言したとされています。しかし、これが聞き入れられなかったことから、領地の柳川へと戻ります。

その柳川も東軍に与した黒田・加藤・鍋島の連合軍に攻められ、宗茂は降伏して開城、改易されて浪人となります。

慶長9年(1604年)、徳川家重臣の本多忠勝の推挙で江戸城に召し出され、徳川家康から幕府の御書院番頭役として5,000石を賜ります。
その後、徳川秀忠の御伽衆となり、陸奥棚倉1万石の大名へと復帰を果たしました。棚倉では3万5,000石まで加増を受け、この頃より宗茂を名乗ります。

以後、大阪の陣では徳川に与し、 元和6年(1620年)に旧領の筑後柳川10万9,200石を与えられ、20年越しの旧領回復を成し遂げました。

 

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