局長・近藤勇を筆頭とする 新撰組
誠の一文字を旗に染め抜き、剣を頼りに幕末の大動乱を生き抜いた彼らの大半は、江戸から京都まで来て、町の治安を守っていた。
では新撰組とはどのようにして誕生し、なぜ京都で戦ったのか?
そこには鍵となる一人の男の策謀があった。
江戸に集う若者たち
江戸時代の末、日本近海ではロシアやイギリスなど欧米列強による事件が相次いだ。
幕府は弱腰であり、国を愁(うれ)う若者たちは江戸の道場に集まり、剣道に励む傍ら、政治論議に熱中するようになる。
そうした若者たちの中に武蔵国多摩郡出身の近藤勇もいた。
近藤のもとには剣に優れた若者たちが集まっており、天然理心流師範代・土方歳三、沖田総司、北辰一刀流目録・藤堂平助、神道無念流・永倉新八など剣の達人ばかりであった。
この頃の、永倉の手記には「各々議論国事を愁る」と記されている。日々、稽古を終えると皆が集まり、日本を愁いて議論しあっていたことが分かる。
弘化4年(1847年)、時を同じくして、江戸の地を踏んだもう一人の若者がいた。山形庄内藩の郷士・清河八郎である。
清河は学問や武芸に秀でた天才だったが、我が名を天下に轟かさんという意思で江戸に出てきた。
名門千葉道場に入門した清河は31歳で師範となり、同じ頃、遊郭で出会った一人の女性に惚れこんだ。
気立てが良く、泥水のような生活に身を置かれても白く穢れのない花を咲かせる蓮の花のような女性であった。
清河は彼女を「れん」と呼び、身元を引き取り妻とする。だが、二人の睦まじい生活は長くは続かなかった。
ふたりの若者
嘉永6年(1853年)のペリー来航に始まる日本と各国との不平等な通商条約は、国内の経済を混乱させ、幕府の政策に対する批判は一気に高まる。
安政6年(1859年)、神田於玉ヶ池に文武指南所を開いていた清河は、同志を集めて日本の政治改革の必要性を説くばかりか、自ら幕府打倒の挙兵を画策するようになる。
『一挙にして天子を奉り 錦旗(きんき)を奉じ 天下に号令すれば 即ち回天の大業を樹(た)てん』
これはその時の清河の言葉である。
回天とは天地を一気にひっくり返すことであり、自分たちの手で天皇を中心とした新しい国作りを目指したのだ。だが、清河が幕府の密偵ともいわれていた町人を無礼打ちにしたことで、計画が発覚。
清河は身を隠さざるを得なくなり、残った同志たちは捕縛され、れんも囚われの身となってしまう。それでも、れんは厳しい拷問に耐えて清河の居場所を口にすることはなかった。
妻の身を案じつつ清河が江戸を離れたころ、近藤勇にも転機が訪れようとしていた。
文久元年5月、幕府が設けた講武所(こうぶしょ)の剣道教授に内定したのである。実力があれば身分や家柄を問うことなく教授として招かれるという。だが、期待に胸を膨らませる近藤に思わぬ知らせが届いた。
近藤が農民であることを理由に内定が取り消されたのである。
実力主義とは建前に過ぎず、幕府はいまだ古い体質から抜け出せていなかったのだ。
清河八郎の思惑
失意に沈む近藤が町道場の主に納まった頃、清河八郎は全国で遊説の旅を続けていた。
文久元年12月、九州で薩摩藩が1,000人あまりの兵を京都へ送るという情報を聞きつけた清河は、全国の志士に京へ集まるよう檄を飛ばした。
その数300。薩摩軍と合流すれば幕府を倒せるに違いない。そのために自分が先頭に立ち日本を変える。しかし、京に潜伏していた同志たちが幕府により粛清され、またしても清河の計画は頓挫、彼は関東へと向かった。
その目的は奇想天外な策を実現するためである。幕府打倒のために、まずは敵の懐に入り込むというものだった。
文久2年(1862年)11月、清河は幕府に建言書を提出する。「今は身分にこだわらず、優秀な人材を集めることが大切である。そこで幕府の手で浪士たちを集め、浪士隊を結成し、治安維持のために役立てるべきである」というものだった。
当時の江戸には多くの浪士が集まり事件を起こしていたが、この案なら事件の取締りと抑止ができる一石二鳥のものである。さらに浪士隊結成においては大赦も条件としていた。これにより、かつての同志や妻を獄中から助け出そうというものだったが、清河の思いも虚しく妻のれんは獄中で病死していた。
文久3年(1863年)1月7日、浪士隊の募集が開始される。
『尽忠報国の志を元とし 公正無二 身体強健 気力荘厳のもの 貴賎老少にかかわらず 御召寄に相成り候』
この知らせは失意の底にあった近藤のもとにも届いた。近藤は、土方、沖田、藤堂、永倉など7人を伴って浪士隊に加入する。
すぐに浪士隊は治安維持のために京都に赴くこととなったが、その隊列の中に発案者である清河の姿がない。実は清河は浪士隊と離れて先回りすべく、京へと急いでいた。
このとき、清河の胸中にはまたしても驚天動地の秘策が秘められていたのだ。
浪士隊の真の目的
浪士隊が江戸を出発して3日目、中山道の本庄宿に到着したとき思わぬ騒動が発生する。水戸脱藩浪士・芹沢鴨の宿を取り忘れていたのである。
宿の手配は近藤の役目であった。芹沢は、宿がないなら結構と宿場でかがり火を焚き始めてしまう。このままでは大火事になりかねない。
近藤は芹沢に対して頭を下げ、どうにか騒ぎは収まった。気の荒い浪士たちの中にあって沈着にことを収めた近藤の評価は高まった。さらに京に着いたころには近藤は、その度量と包容力によって隊内でも一目置かれるようになっていたという。
2月23日、京都に到着した浪士隊は壬生村(京都市中京区)に分宿する。その夜、清河が姿を現した。
京に先乗りしていた清河は居並ぶ浪士たちを前に、思いがけないことを言い出す。
「浪士隊の真の目的は尊皇攘夷、すなわち朝廷を敬い、外国勢力を打ち払うことにある」
なんと、幕府のために結成された浪士隊は幕府のためではなく、朝廷のために働くというのだ。
何も言えぬままの浪士たちに血判を押させると、清河はあくる日にそれを朝廷に提出、朝廷から「関東にくだり、外国勢力の打ち払いをせよ」という命が下った。
朝廷の命では幕府も逆らえない。清河の策がようやく実を結んだのである。
隊士一同を前にそのことを告げる清河だったが、このとき思いもよらぬ事態が起きた。
清河に異議を唱える浪士たちが現れたのである。
近藤と清河の対立
清河に異議を唱え、本来の役目のために京に残ると言い出したのは、芹沢鴨はじめ水戸脱藩の浪士たちと、近藤の仲間たちであった。
この事態を予測していなかった清河は激怒してその場を立ち去ったという。
近藤が清河のことをどう思っていたのか分かる逸話がある。
「清河がこれまでやってきたことを見ると、どれもこれも才能に任せて無理押ししたあとが歴然と見える。清河が才能で来るなら、こちらは誠実を持ってこれに向かう」
と漏らしたことがあった。
近藤以下、京都に残ることを決めた浪士たちは、文久3年(1863年)3月12日、京都守護職を務めていた会津藩のお預かりとなり、以後、壬生の地に「壬生浪士屯所」の看板を掲げることとなる。
一方、翌日清河はじめ約200人の隊士は江戸へ向かったが、またしても清河の頭には天下を動かすための策が練り上げられていた。5月に横浜の外国人居留地を襲撃、その後に小田原城を占拠して幕府打倒の兵を起こす。
しかし、これまでの言動から幕府は清河を狙い刺客を放っていた。4月13日、同志の家で酒を飲み、帰宅途中の清河に顔見知りの浪士4人が声を掛ける。
清河が酔っていると見るや、4人は背後から斬りかかり、清河は無念の死を遂げることになったのだ。
清河八郎死去。享年34。
新撰組結成
一方、京都では清河が撒いた種が大きな騒ぎを引き起こしていた。
清河に呼びかけられた浪士たちが集まったことで暗殺が横行するようになり、治安が極度に悪化していたのである。
4月21日、京都に滞在していた将軍・徳川家茂が大阪へ赴いたとき、壬生浪士隊は警護を申し出る。浪士隊は同じ羽織をまとい、列をなして行く。そして、隊旗に染め抜かれたのは「誠」の一文字。
それは、かつて清河の才能に対し、我は誠実をもって対抗するといった近藤の信念を表したものだったかもしれない。
6月、家茂は京都へと戻る。その2ヵ月後、浪士隊の真価が試される事件が起きた。幕府を助ける会津藩が薩摩藩と連合し、朝廷の実権を奪うことに成功したのだ。片や長州と会津、片や長州と反幕府の浪士たち。この一触即発の事態に浪士隊は御所の警護を命じられる。さらに、会津藩から京都市中の見回りを命ぜられた。
その通達に記された隊の名は「新撰組」。新撰組とは新たに選ばれた諸芸に秀でた者達という意味である。
このとき、浪士隊は会津藩の別働隊として正式に存在を認められた。それは、誠実を旨として生きてきた近藤の実力が認められた瞬間でもあったのだ。
参考文献 : 新撰組顛末記 文庫
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