松本政信とは
松本政信(まつもとまさのぶ)とは「鹿島神流(かしましんりゅう)」の開祖である。
源義経が奉納した秘書を手に入れて「鹿島神伝神影流(かしましんでんしんかげりゅう)」という新しい剣法を創出し、鹿島の太刀の極意「一つの太刀(ひとつのたち)」を開眼した。
政信は後に剣聖と謳われる塚原卜伝(つかはらぼくでん)に極意である「一つの太刀」を授け、もう一人の剣聖・上泉信綱(かみいずみのぶつな)に「香取新道流(かとりしんとうりゅう)」を教えたとも言われる、関東剣術の先駆者となった人物だ。
今回は、後の二人の剣聖と師と呼ばれ、壮絶な最期を遂げた伝説の剣豪・松本政信について解説する。
出自
松本政信は、常陸国の鹿島家の四宿老の一つである松本家に室町時代の後期に生まれた。松本家は鹿島神宮の祝部(ほふりべ : 神官)であり、家臣を束ねる家であった。(※生年などの詳細は不明である)
政信は「松本備前守政信」または「松本備前守政元」とも呼ばれ、初名は「守勝」で後に「尚勝」と名を改めているが、ここでは「政信」と記させていただく。
政信が仕えた鹿島家には松本家・小神野家・額賀家・吉川家の四宿老が設置され、吉川家と共に鹿島神宮の神官であったという。(※これを否定する説もある)
政信は長享2年(1488年)に上洛し、室町幕府第9代将軍・足利義尚に拝謁して諱の一字を賜って「尚勝」に改めている。
鹿島新流
当時の剣法の流儀は京では「京八流」、関東では関東七流、すなわち「鹿島七流」があった。
鹿島七流は鹿島神宮の神官七人の家伝であったとも言われ、元来一つの流れであったものが神官七家に分かれ、その七家から世間へ流布した。
その神官たちが「鹿島の剣」や「香取の剣」として伝えたものを、飯篠家直が体系化して「香取新道流」を創始したのである。
政信は後に剣聖と呼ばれる塚原卜伝の祖父・吉川加賀入道から「鹿島中古流(かしまちゅうこりゅう)」を学び、その後、飯篠家直の門人となり「香取新道流」を教えられたが、政信が21歳の時に師・飯篠家直が亡くなってしまう。
政信は剣術のほかに、柔術・薙刀術・十文字槍術・杖術・鎌術など様々な武道に精通しており、師の飯篠家直から学んだ「香取新道流」に独自の工夫を加えて「鹿島神流(かしましんりゅう)」という独自の流派を創始した。
政信は鹿島神宮に祈願して源義経が奉納した秘書(天狗書)を手に入れ、そこから新しい剣法を創出して「鹿島神伝神影流(かしましんでんできしんかげりゅう)」を称したと、直心影流伝書には伝えられている。
「鹿島新流」「鹿島神伝神影流」「直心影流」の初代流祖は松本政信、二代は上泉信綱という形となっている。
さらに政信は鹿島神宮に籠って「鹿島の太刀」の奥義「一つの太刀(ひとつのたち)」を開眼した。
正信は「香取新道流」の同門だった塚原安幹(塚原卜伝の養父)に奥義「一つの太刀」を授け、それが後に塚原卜伝へと受け継がれていくこととなる。
その後、卜伝は政信にならって鹿島神宮に籠り、自らの流派「鹿島新當流(かしましんとうりゅう)」を創始し、数々の剣豪を育て上げて後に「剣聖」と謳われる。
また、政信の元には後にもう一人の「剣聖」と謳われる上泉信綱が、10代の頃に訪れて学んだという。
上泉信綱は「念流」「陰流」「新道流」の日本兵法三大源流を学び、自らの流派「新陰流(しんかげりゅう)」を創始している。
関東の剣術の流れ
仁徳天皇の時代に「神妙剣」と称する刀術が「鹿島の太刀」という関東の刀法の始まりであると伝わり、それが鹿島の神官の七家に伝わった。
その神妙剣の創始者・国摩真人の42代目にあたる人物が吉川左京覚賢であり、本名を卜部呼常と言い、鹿島神宮の鹿島家四宿老の吉川家の者だった。
この覚賢の次男が塚原家に養子となった、塚原卜伝なのである。
卜伝は実父・覚賢から家伝の「鹿島古流(かしまこりゅう)」を学び、養父・塚原安幹から「香取新道流」を学び、さらに父の同門である松本政信が創案した「鹿島の剣」の奥義「一つの太刀」を学んだ。
こうして関東の剣術界は「鹿島の剣・香取の剣」を学んだ飯篠家直が「香取新道流」を、それを学んだ松本政信が「鹿島神流」を創始して奥義「一つの太刀」を編み出し、それを塚原安幹に授けて息子・塚原卜伝が「一つの太刀(一之太刀とも)」を完成させて「鹿島新當流」を創始するという流れになった。
卜伝は諸国を巡って多くの門下生(弟子)を育てた。その中には唯一相伝された雲林院松軒のほか、諸岡一羽・真壁氏幹・斎藤伝鬼房・林崎甚助・上泉信綱ら、自らの一派を編みだした剣豪たちが数多くいる。
また、卜伝は将軍の足利義輝や足利義昭、武将の北畠具教・細川藤孝・今川氏真・山本勘助らにも「新當流」を教えたとされている。
松本政信と塚原卜伝からも学んだ上泉信綱は、疋田豊五郎・神後宗治・柳生石舟斎・丸目蔵人・奥山公重・宝蔵院胤栄・駒川国吉ら、有名な剣豪を育てている。
つまり政信は、塚原卜伝と上泉信綱という二人の剣聖の師とも言えるわけだ。
壮絶な最期
時は戦国時代、政信は近隣の諸豪族と手を結び、主家である鹿島氏に対して叛乱を企てた(※鹿島氏内の内紛に巻き込まれたとされている)
強い者が生き残る戦国時代、政信も下剋上を狙って出陣したのである。
槍を合わすこと23回、高名の首25、並の首76と、100人以上を討ち取り奮戦するも、力尽きこの戦いで討ち死にしたという。
塚原卜伝と上泉信綱(2人の剣聖)の師ということは、当時の天下無双の剣豪だったということですね。
上泉秀綱は、松本備前守に師事して学びましたが、教わった場所は鹿島ではなく、実は当時敵対していた北条氏の所に出向いて学んだそうです。
松本備前守が北条の練兵指南役をしてたからですが、北条も敵対してる山内上杉の御家人をよく許したなと思います。
まぁ、小領主でもあって、ただの一般家臣でないからともいえますね。
塚原卜伝とは、面識は松本を通じてあったようですが、教えを受けたことはないようですよ。