海外

【ヨーロッパで最も危険な男】 オットー・スコルツェニー

ヨーロッパで最も危険な男

オットー・スコルツェニー

画像 : 1943年のスコルツェニー

オットー・スコルツェニー (1908年生〜1975年没)は、第二次世界大戦時にアメリカを始めとする連合国から「ヨーロッパで最も危険な男」の異名で知られたドイツの軍人です。

正確には「武装親衛隊」と呼ばれた武装組織の一員のため、ナチスの党もしくはアドルフ・ヒトラーの私兵という位置づけであり、通常のドイツ国防軍の軍人ではありませんでした。彼の武装親衛隊での最終の階級は中佐でした。

このスコルツェニーが一躍その名を知られるようになったのは、幽閉されていたべニート・ムッソリーニを救出する作戦を成功させた主役とされたことが発端でした。

その鮮やかな救出劇に、ある種の畏敬の念を込めて称された「ヨーロッパで最も危険な男」という異名。

いかしその実情はナチス・ドイツのプロパガンタによる脚色に彩られたものと言えました。

ムッソリーニ救出の背景

オットー・スコルツェニー

※ムッソリーニ

1943年7月25日、イタリア王国のムッソリーニ 首相は、同国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から解任されて首相の座を追われることになりました。

同日にムッソリーニは当局に逮捕・拘束されましたが、この知らせを受けたヒトラーは、イタリアが戦争から離脱することを食い止めるべく、その救出作戦の実行を指示しました。

救出作戦の計画・立案と実行は、ドイツ空軍のクルト・シュトゥデントに下され、武装親衛隊のスコルツェニーには救出が成功した後の保護が命じられました。

何故ドイツ空軍かと言いますと、当時、降下猟兵と呼ばれていた空挺部隊を所轄していたのが空軍であったためで、こうした特殊作戦を実行する能力を有していたからでした。

シュトゥデントらは暗号解読によって、頻繁に幽閉先を移動させられているムッソリーニが、1943年8月28日以降にはグラン・サッソ山中のホテルへと幽閉されているという情報を探り出しました。

救出作戦の計画

ムッソリーニが幽閉されているホテルは標高2,000メートルを超える山の狭い場所にあり、そこに近づくには崖を登るか、一本道を進むしかない環境にありました。
加えてムッソリーニの身柄を無事に保護するためには、ホテルへと密かに接近することが不可欠であり、一本道に近づくことは考えられないことでした。

これらを考慮して最終の作戦計画では、ドイツ空軍のハラルト・モルス少佐率いる降下猟兵を主力とし救出した後のムッソリーニを護衛する目的で、スコルツェニーら少数の武装親衛隊員、これに警備側が反撃した場合に備え、イタリア軍の将・フェルナンド・ソレティを入れた作戦人員をグライダーで付近へ降下させ、ムッソリーニの確保後には、世界初の量産ヘリコプターを使用して、ドイツ軍の支配するエリアに移動、現場に降下した部隊は、陸路を通って撤収するという作戦が立てられました。

救出作戦の決行

オットー・スコルツェニー

画像 : ハラルト=オットー・モルス、スコルツェニーとムッソリーニ。グラン・サッソ前(1943年9月12日)

そして1943年9月12日13時、ドイツ軍の救出部隊は12機のグライダーに分乗して作戦を決行しました。

上空で曳航した機から切り離されたグライダー12機は8機が無事に着陸しました。着陸したモルス少佐配下の降下猟兵らは迅速に目標のホテルへと突入を敢行しました。ホテルの警備員らはドイツの降下猟兵に不意を突かれ、気付いたときには完全に包囲されたことから、無抵抗に始終しました。

降下猟兵らに、続いて突入を果たしたスコルツェニーら武装親衛隊員も加わり、銃撃戦に及ぶこともなく幽閉されていたムッソリーニを確保することに成功しました。

スコルツェニーは降下猟兵からムッソリーニを預かり、計画通りにホテルを脱出、降下猟兵らも予定どおり陸路でドイツ軍の支配エリアへと脱出を果たしました。

アイゼンハワー暗殺?

こうして作戦としては完全な成功を収めたムッソリーニ救出でしたが、実行はモルス少佐と彼が率いた降下猟兵が主体であったにも関わらず、スコルツェニーのみが注目を集めることになりました。

その理由は、同行した報道班が写真やフィルムで記録していた中で、スコルツェニーがムッソリーニを伴いホテルを後にする部分がナチスのプロパガンタに最大限利用され、あたかもスコルツェニーが作戦全体を指揮したかのような印象の報道がなされた結果でした。

スコルツェニーも与えらた任務は果たしているので非難される部分はないのですが、あくまでモルス少佐と降下猟兵達が主体となって成功させた作戦だったことを考えると、彼らがあまりにも気の毒に思えてきます。

こうして名を挙げたスコルツェニーは、以後も特殊部隊としての作戦に従事し一部を成功させています。彼も決して特殊部隊の指揮官として能力がなかった訳ではないようです。

ナチス・ドイツの西部戦線での最後の賭けとも言われた、1944年12月のアルデンヌ攻勢。この時スコルツェニーは「グライフ作戦」と呼ばれたアメリカ軍への成りすまし潜入作戦を実施しています。

これはアメリカの軍服を着てアメリカ軍の後方に入り込み、敵を攪乱しようという、戦時国際法をあたまから無視したゲリラ作戦でした。

画像 : ドワイト・D・アイゼンハワー Dwight D. Eisenhower

そこで捕えられた兵士が、連合軍総司令官のアイゼンハワーの暗殺を狙っている、という虚偽の自白をしたことで、一時連合軍内はスコルツェニーの「ヨーロッパで最も危険な男」の誇大な風聞も相まって、戦々恐々としたと伝わっています。

参考文献 : ヨーロッパで最も危険な男

 

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 「読書教育」は童話の王国デンマークから伝わった【マッチ売りの少女…
  2. 「#MeToo運動」とは何か? ~台湾の女優、モデルが被害を公表…
  3. バイク王国台湾 〜「台湾人はなぜこんなにバイクが好きなのか?」
  4. 【パリ五輪】 男子バドミントンダブルス決勝『台湾vs中国』で起き…
  5. ジンバブエの過酷な現在 【アフリカ食糧庫からの転落、ムガベ独裁後…
  6. ブロンテ姉妹とは(シャーロット、エミリー、アン)【全員短命の天才…
  7. 政府閉鎖の影響(政府職員に関して)について調べてみた
  8. 日本国内での『ロシア人スパイ』の動きとは 〜具体的な手口と実体験…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

豊臣秀吉の人物像 「指が6本あった、信長を呼び捨て」〜 戦国三英傑の逸話

三英傑とは戦国三英傑(せんごくさんえいけつ)とは、天下人へあと一歩のところまで迫った「織…

天安門事件とはどのような事件だったのか? ③ 「武力弾圧開始、戦車で何度も轢いた?」

武力弾圧1989年6月に入ると、人民解放軍(中華人民共和国の軍隊)が北京に集結しているという噂が…

赤備えの井伊直政の生涯【武勇に秀でる美男子だった】

井伊直政は遠江国の井伊谷に生まれた。父は井伊直親であったが、領主だった今川氏真に謀反…

直江状とは? 「なぜ上杉景勝は徳川家康と対立したのか」

軍神「上杉謙信」の後継者と目されながらも、上杉景虎との家督争いを征することでようやく越後の大名となっ…

ある1人の死体が第二次世界大戦の勝敗を決めた!?【ミンスミート作戦】

はじめに第二次世界大戦は、まさに人類の明暗を決める戦いでした。もしナチス・ドイツ(ヒトラ…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(週間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP