鎌倉殿の13人

武衛は必見?第15回放送で非業の死を遂げた上総介広常。その子孫たちを一挙紹介【鎌倉殿の13人】

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で佐藤浩市さんが熱演した坂東の巨頭・上総介広常(かずさのすけ ひろつね)。

源頼朝(演:大泉洋)を武衛(ブエイ)と呼んでこよなく慕い、強大な武力を背景に活躍するも、頼朝に危険視されて粛清の憂き目を見ます。

歌川芳虎「大日本六十余将 上総介広常」

第15回放送「足固めの儀式」では梶原景時(演:中村獅童)に斬られ、小四郎(北条義時。演:小栗旬)にも見捨てられる最期が視聴者の胸を痛めたものでした。

そんな上総介広常に子孫はいたのでしょうか。今回は『系図纂要(けいずさんよう)』をたどってみましょう。果たして彼らは、どんな生涯を送ったのでしょうか。

【参考・上総氏略系図】
広常-良常-㝎常-秀胤-時秀-(景秀)-常秀-常為-義常-義永-義胤-満胤-満良……?

※『系図纂要』より。ただし必ずしも血縁関係ではなく、家督や名跡を継いだ者もつないでいる模様。

上総介良常(よしつね)

生年不詳~寿永2年(1184年)12月22日没

通称は小二郎。治承3年(1179年)に父・広常が上総国の権益をめぐって対立する藤原忠清(ふじわらの ただきよ)の讒訴を受けた時、弁明のため京都に派遣されています。

寿永元年(1182年)には頼朝の御台所・政子(演:小池栄子)の安産祈願で上総国一宮・玉前神社へ派遣されました。

そして寿永2年(1184年)12月22日、鎌倉で父と共に暗殺されてしまいます。

上総介㝎常(さだつね)

生没年不詳

『系図纂要』にはただ「上総介」とだけ書き添えられ、少なくとも家督を継いだことだけは何とか判るものの、ほとんど謎に包まれた状態です。

次代の秀胤は千葉一族であるため、恐らく血統的にはここで絶えてしまったものと推測。

ただし上総介の名跡は千葉氏によって受け継がれ、その名を後世に伝えています。

上総介秀胤(ひでたね)

生年不詳~宝治元年(1247年)6月7日

千葉介常胤(演:岡本信人)の曾孫で、千葉一族でただひとり評定衆(ひょうじょうしゅう。鎌倉幕府の合議制)に名を連ねました。

仁治3年(1242年)11月10日に従五位下、寛元元年(1243年)7月29日には従五位上にまで昇進しています。

第4代鎌倉殿・藤原頼経。北条氏から権力を奪還するべく野心を燃やすが……(画像:Wikipedia)

三浦義村(演:山本耕史)の妻を正室に迎えていたため三浦一族と関係が深く、共に執権北条氏に対抗。寛元4年(1246年)閏4月には前将軍・藤原頼経(ふじわらの よりつね。三寅)を担いで政変を起こしました(宮騒動)。

しかし失敗して秀胤は鎌倉を追放され、本拠地である上総国に引きこもります。

やがて宝治元年(1247年)6月5日に鎌倉で三浦一族が滅亡(宝治合戦)、秀胤も追討を受けて滅ぼされてしまったのでした。

上総介時秀(ときひで)

生年不詳~宝治元年(1247年)6月7日

官職は式部丞(しきぶのじょう)後に式部大夫(~たいふ)。

仁治2年(1241年)8月15日に将軍・藤原頼経の太刀持を務めたところ、太刀が鞘から抜け落ちてしまう失態を犯します。

しかし「これは人智の及ばぬ力が働いたゆえだ」とのフォローで事無きを得ました。

また寛元元年(1243年)7月17日には頼経がいつ出かけてもお供できるよう、親衛隊のシフトメンバーに組み込まれたところを見ると、暑く信頼されていたことがわかります。

しかし宝治元年(1247年)6月7日、父や弟たちと共に自刃して果てたのでした。

上総介景秀(かげひで)

生年不詳~宝治元年(1247年)6月7日

通称は六郎。別名に上総介秀綱(ひでつな)・上総介秀景(ひでかげ)とも。時秀の弟で、彼も宝治合戦で父や兄ともども自害しました。

上総介常秀(つねひで)

生没年不詳

通称は四郎、右馬允(うまのじょう)の官職を得たと記録にあります。

同じ名前の千葉常秀がいるものの、その通称は平次(へいじ)ですから別人物でしょう。あるいは時秀・景秀兄弟の大叔父が名跡を継いだのでしょうか。

上総介常為(つねため)

生没年不詳

通称は四郎太郎。これは「四郎の長男(太郎)」を意味します。他にも太郎がたくさんいると、呼び分けるためこのような命名になります。

この場合は「常秀の長男」を表しているものの、もう少し情報が欲しいところです。

上総介と書かれていないため、上総介と名乗っていなかった(名乗りを許されなかった)可能性も否定できません(その場合、苗字の名乗りは千葉でしょうか)。

上総介義常(よしつね)

生年不詳~貞和3年(1347年)7月5日没

鎌倉幕府の滅亡(イメージ)

生没年不詳が(常秀・常為の)2代続く内に、気づけば14世紀に突入していました。鎌倉幕府も既に滅亡(元弘3・1333年)しています。

通称は三郎?(次代の義永と親子なら)「よしつね」読みは良常(能常)に続き2人目ですね。

上総介義永(よしなが)

生年不詳~応永元年(1394年)1月2日没

通称は三郎二郎。『系図纂要』のコメントは「応永元年正二死(≒正月2日に死んだ)」とバッサリ。

先代の義常が「~卒(卒去=死亡の改まった表現)」であるのに対して「死」とはあまり穏やかな最期ではなかったようです。何があったのでしょうか。

あるいは卒去が律令制度において四位から五位の者が亡くなった時に使われる表現であり、義永は六位以下どまりだったのかも知れません。

上総介義胤(よしたね)

生年不詳~応永31年(1424年)4月28日没

官職は宮内少輔(くないのしょうゆう)。もうすっかり室町時代、何なら戦国時代までもうすぐです。

上総介満胤(みつたね)

康応元年(1389年)生~文明元年(1469年)5月8日没

原文はどう見ても「康永元年(1342年)生」と読めるのですが、それだと亡くなった時点で127歳!という化け物クラスの長寿に。

恐らく、筆者が康「応」を康「永」と書き間違えてしまったのでしょう。コメントには没年が「八十一」とあるので、康応元年なら辻褄が合います。

官職は備中守、応永31年(1424年)に伊隅郡伊北館(現:千葉県いすみ市など)に移住しました(それ以前は、どこに住んでいたんでしょうか)。

81歳で亡くなった時、こちらも「死」と書かれています。備中守であれば従五位下相当のはずなので、やはりこれまでの「卒」と「死」は位階ではなく死に方が影響しているようです。果たして、どんな最期を遂げたのか気になるところです。

上総介満良(みつよし)

生没年不詳

通称は「八郎」。これ以外に何の情報もありません。先代の満胤が「死」を遂げたことと、何かしら関係がありそうです。

なお『系図纂要』はここで終わっています。ずっと続いてきた上総介の名跡もここで絶えてしまったのか、それとも記録されていないだけで、別の史料に足跡をつないでいるのでしょうか……。

終わりに

以上『系図纂要』をたどり、上総介広常の子孫?(名跡を受け継ぐ者)たちを紹介してきました。

それでは最後に、上総介広常本人について『千葉大系図』の記述を紹介します。

坂東の巨頭・上総介広常。歌川国久筆

上総権介
保元平治之戦場振勇揚其名
治承年中属頼朝卿抽軍功寿永二年十二月依讒口於鎌倉営中被誅焉 後頼朝卿甚悔之翌年二月氏族等悉私領本宅如本可令領掌之賜御下文是優亡者之忠早被厚免云々

※『千葉大系図』より

【意訳】保元・平治の乱では源義朝(みなもとの よしとも。頼朝公の父)に従って武勇を奮って名を挙げた。
治承4年(1180年)に頼朝公のもとで抽(ぬき)んでた軍功を立てるが、寿永2年(1184年)12月、讒訴により鎌倉御所で暗殺されてしまう。
後に頼朝公はこれを後悔し、翌年2月に捕らえていた一族らを赦免して本領を安堵。また故人の名誉を回復するため下文も賜ったのである。

源氏二代に忠義を尽くしながら、あまりの強さゆえに粛清されてしまった上総介広常。その名跡が戦国時代まで続いていたとは驚きですね。

大河ドラマで広常の生まれ変わりと設定されている北条泰時(演:坂口健太郎)の姿に、その面影を偲ぶことができるのでしょうか。12月18日の最終回まで見届けていきましょう。

※参考文献:

角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

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