鎌倉を代表する神社と言えば、鶴岡八幡宮で文句ないでしょう。
鶴岡八幡宮の最も大切な祭礼である例大祭は、毎年9月14~16日に開催されます。これは旧暦8月15日にあたり、かつて鎌倉に開府された源頼朝(みなもとの よりとも)公が由比ヶ浜に千羽の鶴を解放して功徳を積んだ放生会(ほうじょうえ)に由来するとか。
この晴れ舞台に奉仕することは、現代はもちろん、鎌倉時代の御家人たちにとっても最高の栄誉だったと言います。
しかし、鎌倉を代表する一大セレモニーであるがゆえにスタッフの苦労や負担は大きく、御家人の中には何とかお役目を逃れようと必死な者も少なからずいたようです。
そこで今回は鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』より、ある年の鶴岡八幡宮放生会に向けた御家人たちと幕府当局の闘い?を紹介したいと思います。
目次
7月から始まる放生会サボり闘争
「あ~あ、今年も放生会か。めんどくさいな……」
放生会の所役に選ばれてしまった御家人たちは、何とか理由をつけて役目を放k……もといご辞退申し上げようと、あれやこれやと知恵を巡らせるのでした。
放生會所役辞退輩事。行頼。景頼等就執申之。有其沙汰。
隨兵
駿河五郎 三浦介六郎左衛門尉
各勤流鏑馬之間。兩役難治之由申之
城九郎 依爲城介分。流鏑馬射手之由申
阿曽沼小次郎 落馬之由申
於以前兩人者。自身非射手者。不可有恩許。早如元散状可爲隨兵。兩役事。傍例更無御免者。次至長景者。爲射手之上者。可被免者。次光綱者。依落馬着甲冑事爲難治者。着布衣可令供奉者。各被仰此旨。實俊奉行之。※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)7月2日条
【意訳】放生会の所役を辞退する者たちについて、二階堂行頼と武藤景頼が対応しました。
随兵を命じられた駿河五郎通時と三浦介六郎左衛門尉頼盛は「流鏑馬の所役を命じられているので、掛け持ちは厳しいです」とのこと。
これに対しては「騎手でないのだから出来ないことはなかろう。いいから命じられた通りにしなさい」と却下しました。
次に城九郎長景は「安達城介の代理で騎手として流鏑馬に出場するので、随兵は難しい」とのこと。その申し出はもっともなので、随兵の役目は免除してあげることにします。
そして阿曽沼小次郎光綱は「先日に落馬して身体を痛めてしまい、甲冑を着てのお勤めができません」とのこと。
武士が落馬(するのは仕方ないとして、それを恥じもせず堂々と申告してまで役を逃れたがる)とは何事か……ならば「狩衣なら着られるだろう。それでお供せよ」と命じたのでした。
以上、平岡左衛門尉実俊が各人に決定を伝えます。
ケガレを理由に続々と辞退
何とかサボろうとする御家人たちの闘いは、早くも1ヶ月前から始まりました。こんなものはまだ序の口、どんどん行きましょう。
放生會隨兵被差定之中。江戸七郎太郎者。老与病計會。難着鎧之由依申之。有恩許。和泉六郎左衛門尉姙婦。昨日〔八日〕嬰兒死之由申之。勿論云々。景頼爲奉行云々。
※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)7月9日条
【意訳】放生会の随兵について、江戸七郎太郎は「もう老いぼれて病を患っており、甲冑を身につけられません」と辞退を申し出て、これが恩許されました。
また和泉六郎左衛門尉こと天野景村は「昨日、妻が子供を死産。蝕穢となってしまったため、神事への所役はご辞退したい」とのことで、武藤景頼はこれを許可します。
鎌田二郎左衛門尉。善六郎左衛門次郎。可催直垂著之由云々。景頼奉。
※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)8月1日条
【意訳】鎌田二郎左衛門尉行俊と三善六郎左衛門次郎について、鎧直垂で放生会に参列するよう、武藤景頼がこれを指示しました。
【補足】事前に何か伺い(何を着て参列すればいいでしょうか?何なら鎧は着たくないのですが……などと言ったことに対する回答でしょうか)
伊勢入道行願觸申小侍所云。愚息頼綱〔三郎左衛門尉〕當時在國之處。被加放生會供奉人訖。先立有鹿食事可有免許歟云々。
※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)8月2日条
【意訳】伊勢入道行願こと二階堂行綱が小侍所にやって来て言うには「バカ息子の三郎左衛門尉(二階堂頼綱)は放生会の供奉人に加えられておきながら、鹿肉を食って穢れてしまいました。此度はお役御免にしてもらえないでしょうか」とのこと。
【補足】分かっていて、明らかにわざとですね。そもそも父親でなく本人が言いに来るのもふざけています。どうせ地元から鎌倉へ出てくるのが面倒だったのでしょう。
着ていく衣装がない、体調不良……人員確保に四苦八苦
次々に出てくる辞退志願者たち。身内に不幸があったから死の穢れとはともかく、三郎左衛門尉の方は「あー、鹿肉たべちゃった。これじゃあ放生会にでられないなー、あぁ残念だなー(棒)」と言ったところでしょうか。
武藏五郎可爲隨兵。越後四郎着布衣可供奉之由。被仰下云々。
※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)8月3日条
【意訳】武蔵五郎こと北条時忠は随兵を務めなさい。越後四郎時方は布衣(ほい。狩衣)で参列しなさい。と指示を出しました。
【補足】これも事前に「(理由は不明)辞退していいですか?」「服装がないんだけど、辞退していいですか?」などと申し出があった回答と思われます。
小泉四郎左衛門尉可加直垂衆之由云々。出羽藤次郎左衛門尉被仰可着布衣之旨之處。日數已迫之間。狩衣難用意之由。辞申云々。
今日申障之輩
城五郎左衛門尉 〔始雖進奉 今勞由申〕
伊東八郎左衛門尉
伯耆四郎左衛門尉
已上二人勞之由申※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)8月5日条
【意訳】小泉四郎左衛門尉頼行について、鎧直垂で随兵に加えるよう指示がありました。一方で出羽藤次郎左衛門尉頼平は指定された狩衣を用意できないから辞退したいと申し出ます。
他にも以下の3名が病気を理由に辞退を申し出てきました。
一、城五郎左衛門尉こと安達重景(最初は承知していたのに、発病したとか)
一、伊東八郎左衛門尉祐光
一、伯耆四郎左衛門尉光清
さぁ、どうしてくれましょうか。
もういい、お前は来なくていい!北条通時、ゴネ得を勝ち取る
装束が用意できないから放生会に参加できない……何だかドレスがないから舞踏会に行けないと嘆く(棒)シンデレラみたいですね。
病気という理由はオーソドックスですが、10日以上も前だと「当日までに治しとけ!」と叱られて終わりじゃないでしょうか。
駿河五郎辞退随兵事。始則勤仕流鏑馬役之間。計會之由申。後亦稱所勞之由。仍度々被仰之處。如去六日請文者。病痾難治之間。加灸之趣也。而當出仕之上者。固辞不可然。重可催之由云々。又直垂着中。伊勢四郎。爲父伊勢入道分流鏑馬射手之由申之間。無左右有恩許云々。
※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)8月7日条
【意訳】駿河五郎こと北条通時は7月2日に「随兵と流鏑馬の掛け持ちは厳しい」と辞退を申し出てきましたが、8月6日になって今度は「体調不良だから辞退したい」と言い出す始末。
もし本当に病気なら、しっかりお灸を据えてお大事になさいと指示。そもそも見たところ普通に出仕しているのだから、グダグダ言うんじゃないよとなおも辞退を許しませんでした。
また鎧直垂で随兵を務める者の内、伊勢四郎は父である伊勢入道行願(二階堂行綱)の代わりに流鏑馬の騎手を務めるため、問題なく随兵を免除されます。
【補足】鹿肉を食ったバカ息子(8月2日、二階堂頼綱)の埋め合わせでしょうか。
布衣供奉人依有其闕。可加越中五郎左衛門尉。同六郎左衛門尉等之由。被仰出云々。
※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)8月8日条
【意訳】布衣(狩衣)での供奉人メンバーが不足しているため、越中五郎左衛門尉こと横田長員と越中六郎左衛門尉こと横田時業らを参加させるよう指示がありました。
北条通時、粘りますね。これでもかとバカでっかいお灸を据えてやりたいところです。
越中五郎と六郎(恐らく兄弟)は見るに見かねて供奉人を引き受けてくれたのでしょうか。
晴。駿河五郎事。去八日重催促之處。猶以難治之由載請文。仍有其沙汰。故障之趣雖無其理。如當時者。隨兵有數輩歟。可有免許之由。被仰出云々。又尾張守行有。隱岐守行氏等者。着布衣可供奉云々。御身固陰陽師。此間九人也。今日被縮六番。晴茂。晴宗等重服之間。職宗。茂氏等爲父名代勤仕之。而募彼勞効。相並父共被召加。以其例。爲親朝臣子息仲光又被召加之處。範元申云。父子可相並者。仲光者範元下臈也。不可被超越云々。爲和泉前司奉行有評議。閣宿老之奉。弱冠之類。父子相並之條。不可然之由仰出。職宗。茂氏。仲光等被除其衆。仍本番衆晴茂。宣賢。爲親。晴秀。資俊。泰房等六人也。
※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)8月10日条
【意訳】随兵を渋り続ける駿河五郎こと北条通時について、どうしても病気が治らないと言い張るので、呼び出すのを諦めました(当日バックれが一番困りますからね)。
二階堂尾張守行有と二階堂隠岐守行氏について、狩衣を着ての供奉を命じました。
なお、鎌倉殿を悪霊から守る陰陽師の参列については9人と定めていましたが、これを6人に削減。序列についてクレームが入ったためで、すったもんだの揚げ句に安倍晴茂・安倍宗賢・安倍為親・安倍晴秀・安倍資俊・北条泰房(時房の玄孫)となりました。
放生會兵内。常陸左衛門尉行淸一人可候于先陣最前。出羽七郎左衛門尉行頼者必可爲後陣之由。被定下云々。
※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)8月12日条
【意訳】放生会の随兵について、常陸左衛門尉こと二階堂行清を先陣に、出羽七郎左衛門尉こと二階堂行頼については後陣に加えるよう決定されました。
【補足】恐らく行列がだらけないよう、鬼軍曹的な存在を配置したのでしょう。
鹿肉も みんなで食べれば 怖くない
例の北条通時はとうとうゴネ得を勝ち取ってしまいました。放生会をサボれたのはいいとしても、今後の勤務査定が怖いですね。
爲將軍家御願。被奉御釼於諸社。筑前二郎左衛門尉行頼奉行之。次放生會御出之間事。條々有其沙汰。先被定供奉人着座之所。十五日者。随兵者如例可候西廻廊東方。着狩衣之輩者可爲東廻廊前。十六日者。随兵者埒門南左右〔在西面〕可着。次座席事。東者自腋門前迄于東而布衣人少々。其次先陣随兵可着。西者自廻廊迄西而布衣又少々。其次可爲後陣随兵。
次宮内權大輔 長門前司 宇都宮石見前司 大隅大炊助 壹岐三郎左衛門尉 伊勢三郎左衛門尉等各依有鹿食事。辞申供奉間事。爲行方。景頼等奉行。内々有其沙汰。太自由也。放生會以後。殊可有其沙汰之由云々。此間事。平岡左衛門尉實俊一人申沙汰之。工藤三郎左衛門尉光泰輕服之故也。而實俊奉行難仰之由。越州依被申之。自相摸太郎殿。被差副平三郎左衛門尉之間。座席事可存知之旨被仰含。※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)8月13日条
【意訳】放生会に先立ち、鎌倉殿・宗尊親王が各寺社へ太刀を奉納。そして当日の段取りを細かく取り決めます。
そんな中、宮内権大輔長井時秀・長門前司笠間時朝・宇都宮石見前司宗朝・大隅大炊助、壱岐三郎左衛門尉佐々木頼綱、伊勢三郎左衛門尉長綱らが揃いも揃って「鹿肉を食べて穢れちゃいました~」とのこと。
お前ら絶対示し合わせてるだろ!後でまとめて処分するとして、和泉前司こと二階堂行方と武藤景頼らは対応に追われるのでした。
放生會條々。重有其沙汰。所謂。立随兵并布衣供奉人等次第。可進覽之旨。被仰越後守之處。任位次於立次第者。不可及子細。不然者無左右難計申之由。以景頼被報申之。重仰云。不可依位次。且任家之淸花。且分嫡庶可立次第也者。於御持佛堂前公卿座。越州并武藤少卿等雖相談之。非位次々第者。凡難道行之間。猶言上其由。此上被止其儀云々。次中御所依可有御參。被定供奉人。是平三郎左衛門尉依可奉行。下賜其散状。如將軍家御共。着直垂者可候之。可令帶釼否有沙汰。不可然云々。次伊勢二郎左衛門尉頼綱。佐々木壹岐四郎左衛門尉長綱鹿食咎事。父壹岐前司泰綱。伊勢入道行願等就愁申之。評定次及其沙汰。有御免云々。次小野澤次郎。山田彦次郎。可催加直垂着之由被仰云々。次供奉人等。於宮中可着座次第被定之。兩方御棧敷之前。除御妻戸之外。布衣衆可候其下。除兩國司着座之前。東者可爲先陣随兵座。西者可爲後陣随兵座云々。
※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)8月14日条
【意訳】さぁ、いよいよ放生会の前日。最終的なスタッフ名簿を整えるため、北条越後守実時と武藤景頼がてんやわんや。
そんな中、伊勢入道行願こと二階堂行綱と佐々木壱岐前司泰綱が鹿肉を食ったバカ息子たちの件(8月13日)で赦しを願ったため、もうどうでもい……もとい検討の結果お咎めなし(もちろん)となりました。
あと2人どうしても足りないので、小野沢次郎時仲と山田彦次郎を呼び出して鎧直垂で随兵を務めるよう申しつけます。
あとは当日の段取りを確認して会場設営や配置など細々と最終調整……したとか。
そして迎えた放生会の当日。なお翌日の流鏑馬は……
晴。鶴岳放生會。御息所爲覽舞樂渡御〔御輿〕。其後將軍家御出。供奉人。
先陣随兵
武田三郎政綱 小笠原六郎三郎時直
〔一人可候最前之由雖有兼日定臨期如此〕
城六郎顯盛 常陸左衛門尉行淸
三浦六郎左衛門尉頼盛 信濃二郎左衛門尉時淸
足利上総三郎滿氏 千葉介頼胤
新相摸三郎時村 遠江七郎時基
武藏五郎時忠御所御方
布衣
相摸太郎 刑部少輔 彈正少弼 尾張左近大夫將監
越後右馬助時親 民部權大輔 相摸三郎 越後四郎
木工權頭 和泉前司 佐々木壹岐前司 越中前司頼業
後藤壹岐前司 同新左衛門尉 縫殿頭 日向前司
尾張守行有 隱岐守行氏 大隅修理亮 武藤左衛門尉
甲斐三郎左衛門尉 上総太郎左衛門尉長經 善五郎左衛門尉康家 梶原太郎左衛門尉景綱
伊勢次郎左衛門尉 紀伊二郎左衛門尉爲經
〔御笠手長〕
進三郎左衛門尉 肥後四郎左衛門尉 河内三郎左衛門尉祐氏 三村新左衛門尉時親
足立三郎左衛門尉 長次右衛門尉義連 加地七郎左衛門尉氏綱帶釼
式部二郎左衛門尉光長 城十郎時景 武石新左衛門尉 周防六郎左衛門尉忠頼
筑前五郎左衛門尉行重 佐々木對馬四郎宗綱 出雲二郎左衛門尉時光 足立藤内左衛門三郎政遠
後藤壹岐二郎左衛門尉基廣 宇佐美三郎兵衛尉祐明 薩摩新左衛門尉祐重 甲斐五郎左衛門尉爲定
遠山孫太郎景長 小泉四郎左衛門尉頼行 善六左衛門二郎盛村後陣随兵
駿河五郎通時 武藏八郎頼直 遠江十郎左衛門尉頼連 武石三郎左衛門尉朝胤
小野寺新左衛門尉行通 隱岐三郎左衛門尉行景 大曽祢太郎左衛門尉 小田左衛門尉時知
土肥左衛門尉 完戸二郎左衛門尉家氏 河越次郎經重 出羽七郎左衛門尉行頼中御所御方
布衣
陸奥左近大夫將監 相摸四郎 越前々司 武藏左近大夫將監
遠江右馬助 刑部權少輔 對馬前司 武藤少卿
伊賀前司 周防前司 加賀守 薩摩七郎左衛門尉
土肥四郎左衛門尉 出羽弥藤二左衛門尉 鎌田圖書左衛門尉 甲斐二郎左衛門尉
足立三郎右(左)衛門尉 梶原太郎左衛門尉 伊勢二郎左衛門尉 肥後四郎左衛門尉
越中五郎左衛門尉直垂
出羽八郎左衛門尉 信濃判官二郎左衛門尉 伊賀二郎右衛門尉 伊東二郎左衛門尉
梶原三郎左衛門尉 近江三郎左衛門尉
上総四郎 善五郎左衛門尉 小野澤二郎官人
足利大夫判官 上野大夫判官
廻廊參人々相摸守政村朝臣 武藏守長時
武藏前司朝直※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)8月15日条
【意訳】今日はハレの放生会。御息所(みやすんどころ。ここでは御台所)が奉納される舞楽の観覧にお渡りあそばされました。続いて将軍家もおいでなされます。
当日のスタッフは以下の通り……(以下略)。
あえて略さずズラズラと並べましたが、ここに名前が出ている一人ひとりに供奉するまでのドラマがあったことでしょう。
ところで、メンバーを見て見ると駿河五郎通時(北条通時)の名前が。『吾妻鏡』には書かれなかったけど、直前になって「あ、やっぱり参加します」と名乗り出たのでしょうか(あるいは、どうにもならないので名前だけ載せて体面を守っただけの可能性も)。
「あぁ、すべてやり遂げた……」
そんな運営スタッフの達成感からか、翌日に行われた流鏑馬神事の記述はたった一行。
晴。御參宮同昨。流鏑馬以下如例。
※『吾妻鏡』弘長元年(1261年)8月16日条
【意訳】晴れ。将軍家ご夫妻のお参りは昨日と同じ。流鏑馬も例年通り行われました。
もはや精魂尽き果てて、これだけ書くのがやっとだったのかも知れません。
(※ただし『吾妻鏡』の編纂=この記述は後年。それでも当時の脱力感を何とか表現するべく、あえてこう書いたのでしょうか)
本当に、お疲れ様でした。
終わりに
以上、弘長元年(1261年)の放生会について、サボろうとする御家人たちと何とか参加させようとする幕府当局の闘い?をたどってきました。
みんなで力を合わせて成し遂げた放生会、大変だったでしょうけど、それだけ感動も一入だったはず。
ちなみに他の年はここまで激しい攻防?はなかったようですが、この年は何かあったんでしょうかね。
『吾妻鏡』には他にもこうした人間じみたエピソードが多数転がっているので、気が向いたらペラペラ読んでみると面白いですよ!
※参考文献:
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡15 飢饉と新制』吉川弘文館、2015年4月
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