藤原定家(ふじわらの ていか/さだいえ)と言えば、小倉百人一首の選者として知られる高名な歌人。また、第3代鎌倉殿・源実朝(みなもとの さねとも)に和歌を指導したエピソードも有名ですね。
在世中の高い評価はもちろんのこと、後世「歌聖」などと謳われた定家。さぞ雅やかなお人柄をイメージしてしまいますが、その生涯はトラブル続き、幾多の困難に満ち満ちたものでした。
今回はそんな藤原定家の人生を紹介。凄まじい悪運と執念が織りなす物語は、まさに「事実は小説よりも奇なり」と言えるでしょう。
目次
【トラブルその1】大病の後遺症と、父の出家
藤原定家は平安時代末期の応保2年(1162年)、藤原俊成(としなり)の子として誕生しました。
14歳で政界デビューしたものの、その年に麻疹(はしか)にかかり、また16歳で疱瘡を患ってしまいます。
この後遺症によって定家は呼吸器疾患や虚弱体質、また情緒不安定になってしまったとか。
同じ時期に父も健康上の理由で出家、政界を引退してしまいます。後ろ盾を失った定家は貴族社会の出世競争で大きなハンディキャップを負うことに。
しかし定家は和歌の才能をあらわし、18歳で歌合に初出場。藤原公時(きんとき)と引き分ける名勝負を演じました。
以後、20歳で初めての歌集『堀川院題百首』によって各界の高い評価を獲得。着実に地位を固めつつあったのですが……。
【トラブルその2】暴行事件で除籍(クビ)処分に
やらかしてしまったのが24歳の時。新嘗祭の期間中、ついカッとなって同僚・源雅行(みなもとの まさゆき)をブン殴る暴行事件を起こしてしまいました。
……傳聞、御前試夜、少将雅行與侍従定家、有闘諍事、雅行嘲弄定家之間、頗及濫吹仍定家不堪憤怒、以脂燭打雅行了、或云打面云々、依此事定家除籍畢云々……
※『玉葉』文治元年(1185年)11月25日条
【意訳】聞くところによると、源雅行と藤原定家が乱闘騒ぎを起こしたとのこと。雅行が定家を嘲弄、あまりの悪口に堪忍できず定家が脂燭(しそく。灯火)で雅行の顔面を殴りつけたそうな。このことにより、定家は除籍されてしまったのだと。
御所の中で乱闘騒ぎを起こしてしまっては、クビ(除籍)も仕方ないところ。しかし殴れまいと高をくくり、定家を嘲弄した雅行にも何かしら処分があって欲しいですね(記述がないところを見ると、恐らく不問に処された模様)。
【トラブルその3】九条兼実の失脚
さて、失意のどん底にあった定家を救ったのは父・俊成たち。和歌の才能を惜しんだ人々によって取りなされ、25歳で政界復帰を果たします。
「そなたの才能を見込んで、当家に仕えて欲しいのじゃが……」
声をかけてくれたのは九条兼実(くじょう かねざね)。かつて初の歌集『堀川院題百首』を高く評価してくれた一人です。
「はい、喜んで!」
九条家の家司となった定家は、九条良経(よしつね。兼実の次男)や慈円(じえん。兼実の弟)と交流。兼実の寵愛により順調に出世していきました。
ますます和歌の才能を発揮する機会を得て大活躍の定家でしたが、35歳の時に又しても大ピンチを迎えます。
後世に言う「建久七年の政変」、兼実の政敵であった土御門通親(つちみかど みちちか。源通親)らの策謀により、兼実は失脚。
九条家の家司であった定家も、そのとばっちりを受けた可能性(※定家自身については明記されていないものの、身近な者たちが出仕を止められるなどしている)が考えられます。
【トラブルその4】強欲が過ぎて、後鳥羽上皇の怒りを買う
しかし、そんな逆境にあっても定家はくじけません。古来「窮鳥も懐に入れば射られず」とはよく言ったもので、定家は政敵である通親に取り入り始めたのです。
普通なら「何て無節操な野郎だ!」と思うし、当初は通親たちも定家を邪険に扱いました。しかし定家はどんな嫌がらせも耐え抜き、ついには通親の懐へ入り込むことに成功。
このころ、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は和歌への情熱が高まってきたと言います。今こそ才能を活かす時……定家は後鳥羽上皇の乳母・藤原兼子(けんし/かねこ)にも熱心に取り入り、出世街道を突き進みました。
そして50歳で従三位へと昇進、ついに公卿(くぎょう。三位以上の最上級貴族)の仲間入りを果たしたのです。
旧主である九条家や姻族(妻の実家)の西園寺家が軒並み不遇をかこっていた中、異例とも言える出世を遂げた定家。
しかし定家はすっかり権力欲にとり憑かれてしまったようで、これほどの出世にもまだまだ不満たらたらだったと言います。
「この強欲爺いめ!」
59歳となった承久2年(1220年)、不満をぶちまける一首を歌合に詠んでしまったため、後鳥羽上皇の怒りを買ってしまいました。
【トラブルその5】念願の権中納言も一年でクビに
さすがの定家も、今度こそ永久追放かと思われたのですが、還暦を迎えた翌年「承久の乱」が勃発。鎌倉幕府に敗れた後鳥羽上皇は、隠岐国へと流罪にされてしまいます。
まったく悪運の強いことですが、さらには鎌倉幕府と太いパイプを持っていた義兄弟の西園寺公経(さいおんじ きんつね)が権勢を極めたことにより、定家は再び出世街道を驀進しました。
あれよあれよと正二位へと昇進した66歳、それでも飽き足らず権中納言の官職を目指した定家。
「もういいんじゃありませんか?」
「バカモン!まだじゃ……そなた、日吉神社へ参籠せい!」
参籠とはお籠もり祈願のこと。もう足腰の立たなくなっていた定家は自分の妻を祈祷に代参させました。
「……効きませんね。やっぱり本人じゃないとダメなんじゃ?」
「仕方あるまい、これも権中納言のため……いざ、春日詣でへ!」
何と定家は70歳と言う高齢で春日大社へ出発。他人にすがりつき、地に這いつくばりながら向かったと言いますから、凄まじい執念ですね(もちろん途中までは輿や牛車で移動したでしょうが……)。
そんな甲斐あってか、71歳となった正月。ついに定家に権中納言の辞令が発せられました。
「やったぁ!」
……が、12月に罷免(クビ)されてしまいます。九条道家(みちいえ。兼実の孫)と何かいさかいを起こしたと言われている他、ドクターストップがかかった等の可能性も考えられます。
這いつくばってまで勝ち取った権中納言を、たった一年で手放してしまった定家。ここで心が折れたのか、定家は政界を完全引退したのでした。
エピローグ
72歳で出家し、明静(みょうじょう)と号した定家。ただし和歌の世界ではまだまだ活躍しており、『新勅撰和歌集』の単独編纂や「小倉百人一首」の採録など、後世に残る仕事をしています。
来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くや 藻塩の 身もこがれつつ※「小倉百人一首」第97番 権中納言定家
【意訳】いつまでも来ないあなたを待ち焦がれる私は、松帆の浦(淡路島)に焼かれる藻塩のようだ。
一見すると恋の歌。もしかしたら、みなさんにも甘苦い思い出があるかも知れません。
しかしこれは幾多の困難に直面し、いつかきっと運が開けると信じて耐え続けた定家の、焦がれる思いを描いたものにも見えます。
ドロドロとした情熱を美しい情景に変換して詠み上げた一首は、まさに定家の人生を象徴する傑作と言えるでしょう。
果たして藤原定家はNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場するのでしょうか。もしするとしたら、誰がキャスティングされるのか、またどのような脚本に描かれるのかに注目です。
※参考文献:
- 村山修一『人物叢書 藤原定家』吉川弘文館、1989年9月
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