貝原益軒とは
貝原益軒(かいばらえきけん)とは、江戸時代初期から中期に活躍した藩医・儒学者・博物学者・本草学者・庶民教育家で、教育・経済・民俗・歴史などの各分野で先駆的な業績を残した人物である。
今から約300年以上前、江戸時代の日本人の平均寿命は50歳にも満たなかった短命社会において85歳まで生き、晩年に著作を数多く出版するなど精力的に活動し、生涯に60部270余巻にも及ぶ著作を残した。
83歳で健康長寿の心得を著した「養生訓(ようじょうくん)」を出版、この本は当時の大ベストセラーとなり、今も現代語版や解説書が繰り返し出版されるなど、「養生訓」は世代を超えて読み継がれているのだ。
今回は、日本のアリストテレスと呼ばれた江戸時代の儒学者・貝原益軒の生涯と健康の指南書「養生訓」について解説する。
出自
貝原益軒は、筑前国福岡藩の黒田家の祐筆であった貝原寛斎の五男として寛永7年(1630年)に生まれる。
名は「篤信」、字は「子誠」、号は「柔斎、損軒(晩年に益軒)」、通称は「久兵衛」だが、ここでは一般的に知られている「益軒(えきけん)」と記させていただく。
健康長寿で知られる益軒だが、実は幼少時代は超虚弱体質だったため、めったに外で遊ぶことはなく家で本を読むことが多かった。
益軒は秀才として知られ、大人でも難しい算術書を解いたこともあったという。
当時は利発な子は早死にすると言われ、益軒の将来を案じた父・寛斎は涙を流したと言われている。
医師の心得のあった父は、病弱な益軒に少しでも長生きしてもらいたいと自分の医学の知識を教え込んだ。
慶安元年(1648年)益軒は18歳で福岡藩に仕えたが、慶安3年(1650年)2代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることになる。
黒田騒動の元凶とも言える2代藩主の忠之はわがままで、自分の目をかけた者を出世させたことで知られていた。
益軒がどのような理由で怒りに触れたのかは定かではないが、父・寛斎が藩の祐筆を務めた重臣であったことから、藩主を諫めるようなことを言って怒りを買ったと思われる。
浪人となった益軒は再び虚弱体質がぶり返り、眼病や胃炎で苦しんだ。
益軒は病に打ち勝つために自ら医学を猛勉強し、様々な予防法を実践して病に打ち勝つ方法を自分なりに編み出したのである。
再出仕
明暦2年(1656年)益軒は、27歳の時に3代藩主となった黒田光之に許され、藩医として帰藩、翌年には藩費による京都留学で本草子や朱子学を学ぶ。
本草子とは中国から伝わった医学「漢方」のことである。
この頃、益軒は儒学者の木下順庵・山崎闇斎・松永尺五、医師の向井元升・黒川道祐らと交友を深めた。
そしてこの京都での学問の交流や経験・実証主義を体認して、算数の重要性を説き「和漢名数」を編集出版した。
7年間の留学後は、35歳で帰藩し150石の知行を得て、藩内で朱子学の講義や挑戦通信使への対応を任され、佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。
その後、藩命で「黒田家系譜」を編纂し、益軒の上申から黒田藩が元禄元年(1688年)に「筑前国続風土記」の編纂を認めている。
夫婦合奏
益軒は39歳の時に、22歳年下の武家の娘・初子(後の東軒)を娶る。
当時としてはかなりの晩婚だった。
ようやく掴んだ幸せだったが、初子は益軒以上に病弱であった。
胃腸が悪く、うつ病も患い、死線をさまようこと4回、そこで益軒は妻のために薬を処方してはその効果を記録した。
そして妻の体調が回復すると、病にかからないための様々な予防法を実践した。
例えば、その中の一つが寝る前の足湯であり、血行が良くなりストレスの解消にもなる。
このように古今東西のあらゆる健康法を夫婦で試し、病に打ち勝つ体とへと徐々に変化していった。
しかし二人の間には子供ができなかった。当時の武家の結婚は後継ぎを残せなければ離縁となるのが当たり前だった。
ところが益軒は「子供がいなくても二人で楽しめば良い」と夫婦二人で生きる道を選んだのである。
益軒は妻に和歌や書などを教え、元々才女であった妻・初子(東軒)は、なんと学者として名を残すまでになったという。
その後、夫婦は手製のカルタや琵琶を弾いて、健康に留意しながら仲良く暮らした。
気がつけば30年の歳月が流れ、益軒と東軒は京都へ元祖・フルムーン旅行に出かけたという。
健康長寿に生きた益軒の裏には、円満な夫婦生活もあったのだ。
後に益軒の兄の子・好古(よしふる)を養子としている。
老いを極める
元禄12年(1699年)70歳で益軒は隠居、40歳前後で隠居する時代にあってかなりの高齢での隠居だった。
しかし益軒は衰えを知らず、どこへでも歩いて出かけ夜は執筆活動に精を出した。
藩内をくまなくフィールドワークし「筑前国風土記」の編纂を続け、元禄16年(1703年)に藩主に献上している。
そして30冊以上もの書物を書き上げた。
益軒の人生の中で晩年が一番充実しており、老いることの楽しさを実感していたといえる。
今も昔も、老いの楽しみに気づいている人は多くないであろう。
時は元禄文化花盛りの時代、豊かさにあふれ武家は1日4食の飽食となり、人々は酒に浸り博打にうつつを抜かし遊郭も繁盛した時代だった。
欲望のままに生きた後、待っていたのは厳しい老後であり、不摂生のツケが体を痛め病にかかって辛い日々を送る。
「老後は苦しく、辛いもの」それが世間一般の老後に対する考え方だった。
養生訓
「今こそ人に伝えなければ」と益軒は筆を執り、健康になるための秘訣から長寿になるための心得までを書き上げる。
こうして完成したのが八巻で構成された「養生訓」であった。
「食事は腹八分」「長い睡眠を取らない」「むやみに薬を使わない」など、益軒は自分が実践して見つけた健康法を余すことなく書き記した。
また、人としての生き方や考え方まで戒め、まさに人生の書と言える内容であった。
養生の視点からの「三楽」として以下の3点を挙げている。
1. 道を行い、善を積むことを楽しむ
2. 病にかかることの無い健康な生活を快く楽しむ
3. 長寿を楽しむ
また、長寿を全うするための条件として自分の内外の条件が指摘されている。
まず自らの内にある四つの欲を抑え、我慢することが大切だという。
1. あれこれ食べてみたいという食欲
2. 色欲
3. むやみに眠りたがる欲
4. 徒らに喋りたがる欲
これら全てが自身の実体験であり、妻も元々益軒以上に病弱であったが、晩年には夫婦で旅行し益軒の死の8か月前の62歳で亡くなっている。
益軒は老後の素晴らしさをこう表現した。
「老後の一日は千金に値する」
この「養生訓」は当時の大ベストセラーとなり、空前の健康ブームを巻き起こした。
正徳4年(1714年)、益軒は当時としては長寿の85歳で亡くなった。
おわりに
貝原益軒は、生涯に思想書・博物学書・本草書・教育書・紀行文など、60部270巻余の著書を残した。
「養生訓」には現在に通じる心得がたくさん書かれており、健康書であり哲学書でもあると言える。
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