平安時代

無謀過ぎる!?鎮西八郎こと源為朝に一騎討を挑んだ山田小三郎伊行の末路は……。

八人張りの強弓を手に、鎮西(九州地方)狭しと大暴れした鎮西八郎(ちんぜいはちろう)こと源為朝(みなもとの ためとも)。

保元の乱でも大活躍、その弓勢(ゆんぜい)は多くの敵を鏃(やじり)の錆と屠り去ってきました。

為朝の弓勢に怯む清盛(イメージ)神泉苑蔵「保元・平治合戦図屏風」

あまりの恐ろしさに為朝が現れると、平清盛(たいらの きよもり。安芸守)さえ引き返そうとする始末。

無理からぬところながら、このままでは武士の名折れと、一人の猪武者が為朝に一騎討を挑むのでした。

片皮破の猪武者、鎮西八郎に勝負を挑む

……爰(ここ)に安芸守の郎等に、伊賀国の住人、山田小三郎伊行(やまだの こさぶろうこれゆき)と云は、又なき剛の者、片皮破(かたかわやぶり)の猪武者なるが、大将軍の引給ふをみて、「さればとて矢一筋におそれて、向たる陣を引事やある。縦(たとい)筑紫(つくし)の八郎殿の矢なりとも、伊行が鎧はよもとほらじ。五代傳へて軍(いくさ)にあふ事十五ヶ度、我手に取ても、度々おほく矢共を請しかど、未(いまだ)裏をばかゝぬものを。人々見給へ。八郎殿の矢一つ請て、物語にせん」とて懸出れば、「をこ(烏滸)の高名はせぬにはしかず、無益なり」と、同僚ども制すれ共、本よりいひつる詞をかへさぬ男にて、「夜明て後に傍輩の、八郎の、いで矢目みんといはんには、何とか其時答べき。然ば日来(ひごろ)の高名も、消なん事の無念なれば、よしゝゝ人はつゞかずとも、おのれ證人に立べし」とて、下人一人相具して、黒革縅(くろかわおどし)の鎧に、同毛(おなじけ)の五枚冑を猪頸(いくび)に着、十八さいたる染羽の矢負、塗籠藤(ぬりごめどう)の弓持て、鹿毛(かげ)なる馬に黒鞍おいてぞ乗たりける。……

※『保元物語』白河殿へ義朝夜討ちに寄せらるる事より

清盛の郎党に、伊賀国の住人で山田小三郎伊行という片皮破(向こう見ず)な猪武者がおり、その言うには

「たった一筋の矢を恐れて兵を退くとは何事か。たとえ鎮西八郎の矢であろうと、我が鎧は貫通できまい。これまで五代の主君に仕え、十五度の合戦で多くの矢を受けて来たが、我が鎧を貫通した矢は一度もなかった。かたがた、今回も八郎殿の矢を受けてみせようじゃないか」とのこと。

為朝に一騎討を挑む無謀な小三郎(イメージ)

もちろん周囲は「バカなことはせぬがよい。何の益もない」と止めますが、言って聞くような男ではありません。

「一度口にしてしまった以上、ここで退いては日頃の武名もフイになってしまう。本当に矢を受けたか誰も見に来てくれないだろうから、そなただけでもついて参れ」

と、伊行は下人ひとりを連れて為朝の元へ駆けつけました。

……門前に馬を懸すゑ、「物其者にはあらね共、安芸守の郎等、伊賀国の住人山田小三郎伊行、生年廿八、堀川院の御宇、嘉承三年正月廿六日、対馬守義親(つしまのかみ よしちか。源義親)追討の時、故備前守殿の真前(まっさき)懸て、公家にもしられ奉たりし山田の庄司行末(しょうじゆきすえ)が孫なり。山賊、強盗をからめとる事は数をしらず。合戦の場にも度々に及で、高名仕(つかまつり)たる者ぞかし。承及(うけたまわるにおよぶ)八郎御曹司を、一目見奉らばや」と申ければ、爲朝「一定(いちじょう)きやつは引まふけてぞ云らん。一の矢をば射させんず。二の矢をつがはん所を射落さんず。同くは矢のたまらん所を、わが弓勢を敵にみせん」と宣ひて、白蘆毛(しろあしげ)なる馬に、黄覆輪(きふくりん)の鞍おいて乗たりけるが、かけ出て、「鎮西の八郎是にあり」と名乗給ふ所を、本より引まふけたる矢なれば、弦音たかく切て放つ。……

※『保元物語』白河殿へ義朝夜討ちに寄せらるる事より

さて、到着した伊行は為朝に向って名乗りを上げます。

「やぁやぁ遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ……我こそは(中略)山田小三郎伊行、28歳。かつて堀河院の御代、嘉承3年(1108年)1月26日に対馬守を追討した時のこと。亡き備前守(清盛の祖父・平正盛)殿の下で真っ先に武功を立て、都でも名を知られた山田庄司の孫なり。山賊・強盗退治はお手の物、数々の戦で名を上げて参った。こたびは鎮西八郎殿とお目にかかりたい!」

すると「何じゃ、うるさいのぅ」とばかりに為朝が登場。

歌川国芳「英勇一百傳 鎮西八郎為朝」

(どうせ我が姿を見せた瞬間、引き構えている矢を射放つのじゃろう。まぁ、一の矢は射させてやろう。二の矢を継ぐ間に射落としてくりょうか。物分かりの悪い連中に、我が弓勢を思い知らせてやろう)

……と思いながら、為朝はただ「鎮西八郎は、ここにおるぞ」とだけ答えました。伊行はすかさず矢を射放ちます。

……御曹司の弓手の草摺(くさずり)を縫(ぬい)ざまにぞ射切たる。一の矢を射損じて、二の矢をつがふ所を、為朝能引(よっぴい)てひやうと射る。山田小三郎が鞍の前輪(まえわ)より、鎧の前後の草摺を尻輪(しりわ)懸て、矢先三寸余ぞ射通したる。しばしは矢にかせがれて、たまるやうにぞ見えし、則(すなわち)弓手(ゆんで)の方へ真倒(まさかさま)に落れば、矢尻は鞍にとゞまて、馬は河原へはせ行ば、下人つと走りより、主を肩に引懸て、御方の陣へぞ帰りける。寄手の兵(つわもの)是を見て、彌(いよいよ)此門へむかふ者こそなかりけれ。……

※『保元物語』白河殿へ義朝夜討ちに寄せらるる事より

果たして伊行が放った矢はわずかに逸れ(為朝が身をかわしたか)、左腰の草摺(腰部分の防具)をかすめました。

「チッ、外したか!二の矢を……」

「遅い!」

為朝は瞬時に答の矢を射放ち、果たして鞍の前輪から前後の草摺そして鞍の尻輪まで、伊行の下半身を貫通します。

「……ぐわっ!」

伊行はたまらず落馬。下人は駆け寄って伊行を助け起こし、肩を担いで逃げていきました。これ以来、寄手はいよいよ為朝の元へは近づかなくなったということです。

終わりに

「だから言わんこっちゃない……」仲間たちのそんな嘆息が聞こえてくるようですが、改めて為朝の強弓ぶりを知らしめる結果となりましたね。

大槻東陽『啓蒙挿画日本外史』「源為朝強弓ヲ挽テ官軍ノ艦ヲ覆へス」

矢の貫通位置(記述)から下半身を負傷したと思われる伊行。動脈出血であれば助かる見込みも薄そうですが、その後どうなったのでしょうか。

それにしても、伊行の長々とした名乗りに対して為朝の「鎮西八郎じゃ」と実にシンプルな名乗り。

「鎮西八郎と名乗れば、それで十分(武勇のほどは知っている)だろう?」

満ち溢れる自信にふさわしい活躍をその後も重ねていくのですが、また改めて紹介したいと思います。

※参考文献:

  • 岸谷誠一 校訂『保元物語』岩波文庫、1934年11月
角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)※お仕事相談は tsunodaakio☆gmail.com ☆→@

このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」https://rekishiya.com/

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 武蔵坊弁慶は実在したのかどうか調べてみた
  2. 平家が壇ノ浦の戦いで滅びたというのは本当なのか
  3. 法然上人の苦悩と迫害を乗り越えた生涯【浄土宗の開祖】
  4. 北海道 積丹町の神威岬に行ってみた 「源義経とチャレンカの伝説」…
  5. 戦国大名の家紋について調べてみた
  6. 本庄繁長『一度は上杉に背くも越後の鬼神と称された武将』
  7. 暑い夏には、よく冷やした瓜が一番!『今昔物語集』より、行商人と爺…
  8. 【荒んでいた平安時代】心の拠りどころを神仏に託した2人の法皇・花…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

【SpaceX】4度に渡る中止を乗り越え「観測衛星PACE」の打ち上げ成功

2024年2月8日早朝、フロリダ州ケープカナベラルの空軍基地から、NASAのPACEミッショ…

近藤勇が「大久保大和」と名乗った意味は? 「尊皇攘夷と幕府への忠義…新選組局長」

宮川勝五郎、宮川勝太、嶋崎勝太、嶋崎勇、そして実名(本姓+諱)の藤原義武……幕末・京都の不逞浪士を震…

「日本最古の遊女とは?」古代から江戸までの遊女の役割と歴史を辿る

遊女(ゆうじょ)とは、娼婦や売春婦を指す古い呼称である。とりわけ江戸時代には、幕府に…

伊達政宗の意外な趣味とは? 〜天下の大将軍を手料理でもてなした料理の達人

「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」この言葉を聞いて、ど…

B-1B爆撃機について調べてみた【死の白鳥】

北朝鮮問題でアメリカが示したオプションのなかに「死の白鳥を飛ばす」というものがあった。メディ…

アーカイブ

PAGE TOP