家康の初めての側室
「どうする家康」第10回にて、北香那が演じるお葉という女性が、家康の初めての側室として登場した。
NHKの公式サイトやTwitterでは「今川家臣・鵜殿家の血筋の娘、家康初めての側室」と紹介されているが、史実ではどのような女性だったのであろうか?
西郡局(お葉)は家康の又従姉妹
お葉は、史実では西郡局(にしのこおりのつぼね)という女性である。ちなみに「お葉」という名前は史料では確認できなかったので、おそらくドラマでつけられた名前である。
西郡局の祖父は、三河国衆・鵜殿長持(うどのながもち)で、祖母は今川義元の妹とされている。その祖母は家康の母・於大の方の叔母なので、家系図的には西郡局と家康は又従姉妹の関係となる。
西郡局の父はの鵜殿長持の次男・鵜殿長忠(うどのながただ)であるが「長忠は家臣の加藤義広の娘を養女とした」という記録もあるので(※蒲郡市誌)、鵜殿家と血は繋がっていなかった可能性は高い。
「どうする家康」視点で見る西郡局(お葉)
「西郡局(お葉)は鵜殿長忠の娘」といきなり言われても、鵜殿家自体が知名度的にはマイナーかと思われるので「どうする家康」を見た方目線で解説する。
前述したように鵜殿長忠は次男であり、当時の鵜殿宗家(上ノ郷)は長男の鵜殿長照(うどのながてる)が継いでいた。
鵜殿長照とは、ドラマでは野間口徹が演じていた武将である。
「どうする家康」の第6回において、上ノ郷城の攻略に苦戦して忍びを使った家康に対し、今川氏真と鵜殿長照が「正々堂々と戦わないとは卑怯」と言ったシーンは印象的だ。
その後、長照は打ち取られ、子供の氏長(うじなが)と氏次(うじつぐ)兄弟が捕虜となり、川を挟んで有村架純演じる瀬名姫(築山殿)、信康、亀姫と人質交換する場面があったが、これも印象的な一幕である。
つまり西郡局(お葉)は、家系図的には鵜殿長照の姪であり、捕虜となった氏長、氏次兄弟とはいとこで、家康とは又従姉妹という間柄である。
ただし前述したように養女という史料もあるため、血縁自体はなさそうである。
西郡局の父・鵜殿長忠は、兄の長照が討死した前後に、鵜殿家の分家(柏原家)として、家康に降っている。
督姫を産む
家康の初の側室となった西郡局は、永禄8年(1565年 ※1575年という説も)に家康の次女である督姫(とくひめ)を産んだ。
本能寺の変で織田信長亡き後、旧武田領を巡って徳川と北条が争いとなった。
当初は北条が優勢であったが真田昌幸の離反などで戦線は膠着し和睦することとなり、和睦条件の一つとして督姫は北条氏直の正室として嫁いだのである。
しかしその後の天正18年(1590年)秀吉の小田原攻めにより、北条家は降伏し氏直は高野山へ追放。氏直が命まで取られなかったのは家康から助命嘆願があったためとされている。
高野山に追放された氏直には生活費として扶持が与えられ、翌天正19年(1591年)8月には秀吉から1万石が与えらたが、同年11月に病死している。
氏直が病死したことにより、督姫は家康の元(江戸)へ戻り、1594年に池田輝政と再婚した。
督姫が江戸へ行く前年に、家康は秀吉の命により関東移封しており、西郡局も江戸に移っている。
長応寺の復興
鵜殿氏の菩提寺だった長応寺は、永禄5年の上ノ郷城落城の戦火で焼失したままだった。
西郡局は下ノ郷鵜殿氏出身の長応寺住持日翁に帰依して、多大な寄進を行い、江戸に長応寺を再興させている。
晩年になっても、最後まで今川に従って滅ぼされた鵜殿宗家を弔う気持ちが強かったことが窺える。
そして慶長11年(1606年)西郡局は伏見城にて急死した。同日に榊原康政も死去しており、両者とも池田輝政の縁者であり人々は不思議がったという。
参考文献 : 徳川家臣団の系図
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