平安時代に糖尿病?
「結核」は昔の日本における国民病であり、平安時代にも多くの人が亡くなっていた。
しかし平安貴族は、結核の他にもう一つ恐れる病気があったのだ。
その病気とは「脚気」である。
脚気になる原因は、糖尿病も含む生活習慣病であることから、平安貴族の食生活の贅沢さが想像できるであろう。
僅かとはいえ高い身分の平安貴族が贅沢三昧の食生活をしていたのだから、そのしわ寄せを受けていた庶民の食生活は推して知るべしといえよう。
平安貴族の豪華すぎる食生活
平安貴族と庶民の食生活の違いを見てみる事にする。
平安貴族の主食は「蒸したうるち米」であった。
いわゆる白米ではないが、それでも贅沢な主食といえるだろう。
当時の平安貴族は客人を迎えての酒宴を頻繁に行っていた。
客人をもてなすために最大級の盛り付け方があり、それがてんこ盛りに高く大盛り状態にされたうるち飯だったのだ。
そして主菜は「魚」であった。
イノシシやヤマドリなどの肉も獲ることはできたのだが、この頃から仏教文化が広がり始め、肉食は徐々に禁止されていった。
特に四足の獣肉は忌まれていくことになる。
魚も冷蔵庫が無い時代であるため、近くの川で獲れたものを塩漬けにしたり干物にしたものが食卓に並んでいた。
更に貴族はお菓子やデザートも食していたという。
もち米粉を焼いた「ひちら」と言うお煎餅に似たお菓子や、桜餅の原型といわれている「椿餅」、「梨」や「なつめ」などの果実、それに牛乳やチーズに近い「蘇」など様々なものが平安貴族の間で食されていたのである。
どれ程の贅沢だったかというと、宴席での料理の品数を見ていただければ想像できるであろう。
野菜類は下品だという事で、ほとんど平安貴族の献立には含まれない形での品数である。
その数なんと、尊者といわれる主賓クラスの大臣で28品。
最上級平安貴族で20品。
上級貴族で12品といった贅沢さだったのである。
平安庶民の食生活
一方庶民の食生活はどうだったのか?
当時の庶民の主食は麦・アワ・キビであった。
さらに量も少なく、御粥にしてかさ増しして食べることが多かったのである。
江戸時代ですら農民は白米にアワやヒエを混ぜて食べていたし、武士も食べるものは農民とそう変わらなかったのだから、平安時代の庶民が白米やうるち米を食すことはかなり難しかったといえるだろう。
副食に至ってはほぼ野菜であった。
たまに干物や汁物が並ぶといった具合の食事を、一日二回食するのが一般的だったのである。
平安貴族というのはほんの一握りの存在であり、日本列島のほとんどの一般庶民は質素で少ない量の食事で日々の暮らしをしていたのだ。
平安時代の庶民が虐げられていたというよりも、平安貴族の贅沢ぶりが異常なのである。
それでは平安時代の武士はどうだったのだろうか?
武士が社会的に高い地位となるのは、もう少し後の時代である。
武士の食事も庶民とそう変わらなかったが、戦の参加も多かったため食事の回数は比較的多かったという。
だがこういった庶民の食事は時代背景を考えれば実はそこまで質素とも言えない。
平安時代の前の時代が奈良時代、そしてその前が飛鳥時代である。
日本の時代区分では、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代までは「古代」なのである。
これは、平安時代の一般住居を知ると更によくわかる。
平安時代は貴族も庶民も大変だった
平安貴族の住まいは、豪華な寝殿造りのお屋敷であり、庭も広くて立派であった。
一方庶民はといえば、まだ多くの人は竪穴式住居に住んでおり、この頃は縄文時代とさほど変わらなかったのである。
そう考えるとこの時代の貴族と庶民の格差は、文化的にも生活的にもかなり大きな開きがあったと言えよう。
平安時代といえば十二単(じゅうにひとえ)を連想する方も多いだろうが、この十二単を着る事ができる身分が高い女性は、ほんの一握りであった。
多くの庶民は、十二単もうるち飯もまったく縁もゆかりも無いものだったのである。
ちなみになぜ十二単を着ていたかというと、男女の出会う機会が限られていたからである。
ここに美しい女性が存在するという事実を男性の間に広めるのは一苦労だったのだ。
そこで豪華で美しい衣装で目立つ必要があったのである。
十二単というと何色もの衣を重ねて着飾り、様々な人達とおしゃれに交流するといったイメージだが、実際はそれほど軽々しいものでもなかったようだ。
当時の女性貴族が着ていた着物は布団ほどの大きさで、総重量が10kg程あったといわれている。
女性貴族はほぼ一日中、あまり動かず過ごしていた。
また、平安貴族は教養やしきたりが重視され、その大半は遊んで暮らすことなど許されず、起床時間はなんと朝3時頃であった。
高い地位で贅沢三昧の平安貴族も、なかなか大変だったようである。
参考文献 : 平安京の下級官人
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