結城秀康とは
結城秀康(ゆうきひでやす)とは、越前国北荘藩(福井藩)の初代藩主で、天下人・徳川家康の次男である。
その名前の「康」は実の父・家康の康と、「秀」は義理の父・豊臣秀吉の秀を一字ずつ与えられたものだ。
まるで戦国時代のサラブレッドというべき人物だが、その生涯は我慢の連続だった。
父・家康から愛されず、後継者候補からも早々に除外されてしまったと言われている。
11歳になると家康の天下取りの最大のライバル・豊臣秀吉の養子になる。
しかし養子とは名ばかりで、実際には人質であった。
それでも不屈の精神で戦国の世を生き抜き、弟の2代将軍・秀忠からも一目置かれる存在になった。
今回は逆境にめげず人生を切り開いた家康の不遇の次男・結城秀康の真実について前編と後編にわたって解説する。
不遇な幼少期
徳川家康が、まだ三河と遠江を治める中堅大名だった天正2年(1574年)2月8日、結城秀康は浜松城下の宇布見村で生まれた。
幼名は「於義丸(おぎまる)」、33歳の家康にとっては、長男の信康以来16年振りの男子だったが、家康は於義丸のことを疎んじて会おうとしなかったと言われている。
その理由の一つとして考えられているのが、於義丸の生母・於万の方の存在である。
「以貴小伝」によれば、於万の方は家康の正室・築山殿に仕える腰元(侍女)だったが家康の目に留まってお手つきになり於義丸を懐妊、これを知った築山殿は嫉妬に狂い、お腹の大きな於万の方を庭の木に括りつけたという。
家康の重臣・本多重次によって助け出された於万の方は、重次と交流があった中村源左衛門の屋敷に預けられて於義丸を出産した。
於義丸はそのまま中村家で育てられたが、家康は築山殿の怒りを恐れて於義丸に会いに行かなかったという。
だが、この話は後世の江戸時代に創作された話だという説もある。
天正2年に築山殿は岡崎城におり、この時家康は浜松城にいた。
於万の方が築山殿の腰元ならば岡崎城におり、浜松城にはいない。
しかも於万の方は由緒ある池鯉鮒神社の神主の娘で、家康の正式な側室であったと考えられている。
では、なぜ於万の方は浜松城ではなく中村家で於義丸を産んだのか?
於義丸が生まれた当時、家康は武田家と抗争の真っ最中だった。
しかも浜松城はその当時改築中で、とても子どもを生ませられる環境ではなかった。
そこで家康の判断で、浜松城ではなく臣下の者の屋敷で産ませたと推測されている。
とは言え、家康が於義丸と会おうとしなかったのは事実で、数えで3歳になるまで対面しなかったという。
江戸時代の朱子学者・新井白石の記述によると、家康の長男・信康は父に会えない於義丸を不憫に思い、自身の居城・岡崎城に家康がやって来た際に何とか対面させようとした。
しかし、家康はそのまま会わずに立ち去ろうとしたので信康は必死に訴えた。
ようやく家康はその場に腰を降ろし、於義丸を抱き寄せて膝の上に座らせたという。
なぜ家康は、於義丸と会おうとしなかったのか?
実は於義丸は、双子だったという説がある。
当時双子は「畜生腹」と言われ「武家に禍をもたらす」という迷信があった。
そこで家康は、双子の於義丸を遠ざけていたという。
於義丸の弟は、於万の方の実家である池鯉鮒神社の神主である永見家に養子に出され、永見貞愛(ながみさだちか)として育てられ、後に神主になった。
(※生まれてすぐに殺されたという説もある)
於義丸が6歳になった天正7年(1579年)9月15日、兄の信康が家康の命で切腹し、21歳の若さでこの世を去った。
目にかけてくれた兄の死を悲しんだ於義丸だったが、同時に家康の後継者という立場になった。
しかしその後、於義丸は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)のもとに養子に出されてしまうのである。
なぜ於義丸は秀吉のもとに養子に出されたのか?
信長が本能寺の変で自害すると、秀吉が天下取りレースの先頭に躍り出た。これに待ったをかけようとしたのが家康だった。
家康は秀吉に不満を持つ信長の次男・織田信雄に手を貸す形で秀吉と激突し「小牧・長久手の戦い」となった。
兵の数では秀吉軍10万に対し、家康・信雄軍は1万5,000〜3万だったが、戦いを優勢に進めたのは家康・信雄連合軍だった。
すると秀吉は信雄と密かに通じ、信雄は家康に無断で講和した。
秀吉と戦う名目を失った家康は、矛を収めるしかなかった。
そして秀吉は、羽柴家と徳川家の友好の証として「家康殿の一族から養子を一人頂きたい」と申し出たのである。しかし養子と言っても実際には人質だった。
徳川家を守るためにこの申し出を飲むことにした家康は重臣たちと相談し、父違いの弟・松平定勝を養子に出すことにした。しかし家康と定勝の生母・於大の方が反対したため、養子に出されるのは11歳になっていた於義丸となったのである。
しかし当時の家康には於義丸の母違いの弟・秀忠と信吉もいた。なぜ次男で後継者候補筆頭の於義丸が養子になったのか?
通説では前述した通り「於義丸が家康から疎まれていたため」とされている。また、大坂城という全く未知の世界に徳川の代表して向かわせるに、三男・秀忠は6歳で幼すぎたという説もある。
二人の父のにらみ合い
天正12年(1584年)於義丸は、羽柴秀吉の養子として大坂城へと出発し秀吉と謁見した。
秀吉は上機嫌で於義丸を迎い入れた。そして前述したように秀吉と家康から一字ずつとって「羽柴三河守秀康」と名乗ることになり、河内国に1万石を与えられた。
翌年には秀吉が烏帽子親となり、元服させた。
家康はほとんど秀康と会うことはなかったが、それに対して秀吉はありとあらゆることで父親らしいことをした。
秀康の立場からすると、秀吉の方が優しいと感じていたはずだ。
しかし羽柴家中には「徳川が差し出した人質」として、秀康を軽視する空気があった。
それに憤った秀康は「我は不肖なりとも徳川の実子にして羽柴家の養子、今より無礼な者がいれば即座に討ち果たす」と宣言したという。
これを知った秀吉は、ただちに秀康に対する無礼を禁じ、秀康に家紋入りの槍を与えて人質ではないという意を示した。
このように秀康の良き父だった秀吉だったが、これには裏があった。
「徳川実記」によると、秀吉は秀康を迎い入れてしばらくすると家康に「近いうちに上洛し、我ら父子(秀吉と秀康)と会ってほしい」と申し入れたという。
つまり秀吉は、できるだけ時間をかけずに天下統一するために、何とか家康を屈服させて臣下の礼を取ったと他の大名たちに見せつけたかった。
家康が秀康に会うために大坂城に来れば、形式的には秀吉に臣下の礼を取ったことになる。
秀吉はそれを演出したかったのだ。
秀吉にとって秀康は、家康を臣従させるための大事な道具だったのである。
しかし家康は「何の理由があって秀吉殿に会わなければならぬのか。秀康は養子に差し出した以上、我が子ではなく会う必要もない」と言って上洛しなかった。
その後、秀吉が関白に就任し、その勢力を拡大しても家康は上洛を拒否し続けた。
業を煮やした秀吉は妹・朝日姫を離縁させて家康の正室として浜松城に送った。実質的には朝日姫は言わば人質、それでも家康は上洛を拒否したのである。
すると秀吉は「このままならば秀康を殺すかもしれぬ」という噂を流した。
それでも家康は「秀吉殿が自分の子を殺そうがワシの預かり知るところではない」と、頑なであり、秀康は覚悟を決めた。
「私の命もこれまでか」と、窮地に追い込まれた秀康だったが、事態は急転することになる。
家康と朝日姫の婚儀が行われたおよそ5か月後、秀吉は切り札として生母・大政所を家康のもとに送ったのである。
さすがの家康もこれには観念して、ついに上洛を決意した。
天正14年(1586年)10月27日、家康は大坂城で秀吉に謁見、念願が叶った秀吉はとても上機嫌であったという。
命拾いをした秀康は、太政大臣に就任した秀吉と共に天下統一に向けて突き進んでいくことになる。
天正15年(1587年)3月、秀吉は島津氏を攻略するために九州征伐に出陣、14歳になっていた羽柴秀康はこれに従って初陣を果たした。
秀康は剣術や馬術に優れていたために戦場でかなり活躍し、武功を挙げたという。
天正18年(1590年)小田原征伐で、ついに秀吉は天下統一を果たした。
しかしその翌月、秀康は豊臣家を去り、下総国・結城家の養子となった。
なぜ秀康は、豊臣家から結城家の養子になったのか?
それは天正17年(1589年)5月27日に秀吉の側室・淀の方が待望の男子・鶴松を産んだからだ。
53歳になっていた秀吉は喜び、鶴松を生後わずか4か月で豊臣家の後継者に指名した。
秀吉に血の繋がった後継ぎができ、家康もすでに臣従しているとなれば、秀康の養子としての価値はもう無かった。
更に秀康の性格にも原因があったようである。
秀康が16歳の時に乗馬をしていると、秀吉の寵臣の一人が並んで馬を走らせて邪魔をした。
秀康は「たとえ殿の寵臣でも無礼である」と、馬上の寵臣を斬り捨てたという。
これを聞いた秀吉は「邪魔をした方が悪い」と言って秀康を咎めなかった。しかし秀吉は、気性の荒い秀康を頼もしく思うと同時に危険視していたとも思われる。
そんな状況の中、下総国の戦国大名・結城晴朝が「50歳を過ぎて跡を継ぐ男子がおりませぬ。願わくは殿下の一族を養子に頂き、娘の婿として結城家を継がせたい」と秀吉に願い出た。
すると秀吉は「ならば秀康を遣わす」と返答したのである。
こうして秀康は結城家の婿となり、結城家の家督と10万1,000石を継ぎ、大名・結城秀康となった。
そして秀康は義理の父・晴朝から日本三名槍の一つである「御手杵 : おてぎね」も授かった。
2度も養子に出された秀康だったが、悪いことばかりではなかったと言える。
養子という名の人質から脱却し、晴れて独立した大名となったのだ。
そして実父の家康が北条氏に代わって関東に国替えされたことで、秀康が治める下総国は家康の指揮下となった。
姓は違うが実父・家康の元で働けるというのは嬉しかっただろう。
家康も秀康に対して「結城家を経営するための心得」を諭したと言われている。
秀康が去った後の豊臣家
秀康が去った後の大坂城では鶴松がわずか3歳で死去、その2年後に生まれたのが後の豊臣秀頼だった。
57歳の秀吉は秀頼を溺愛した。そして秀頼に忠誠を誓う起請文を作成し、諸大名たちに署名させた。
更に五大老・五奉行という職制を導入し、秀頼を支えていく体制を整えた。
実は結城秀康を「六人目の大老」として加える話があったという。
幼い秀頼のために、若い大名も入れたかったのだろう。
秀康の武功は豊臣家内でも認められていたので候補者の一人となった。しかし秀康の大老就任に意を唱える者がいたために、実現には至らなかったという。
そして慶長3年(1598年)6歳の秀頼を残して秀吉が死去。時代の歯車はまた大きく動き出すこととなる。
後編では関ヶ原の戦いや江戸幕府における、その後の結城秀康について解説する。
参考文献 : 以貴小伝、徳川実記
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