今川義元とは
現在放送中の大河ドラマ「どうする家康」で、徳川家康に大きな影響を与える人物として登場したのが、駿河国・遠江国の戦国大名・今川義元である。
今川義元と言えば「桶狭間の戦い」で、10倍以上の兵力を持ちながら織田信長に討たれた「貴族かぶれのダメな武将」というイメージがある。
しかし義元は、戦国時代屈指の戦略家であった。
今回は、戦国時代を代表する戦略家・今川義元の実像について掘り下げていきたい。
海道一の弓取り
義元より少し前の世代に名を轟かせた名将・朝倉宗滴(あさくらそうてき)の家臣・萩原八郎右衛門尉宗俊がまとめた「朝倉宗滴話記」という書がある。
この書において「日本の大名で手本とすべき人物」として最初に挙げられているのが今川義元である。
その次に挙げられているのが、「武田信玄・毛利元就」そして「織田信長」となっている。
そうそうたる武将の中で一番に挙げられているのが、今川義元なのだ。
義元は数多くの危機を乗り越え、駿河国・遠江国を領し「太守様、海道一の弓取り」と言われた。
義元は僧侶になるはずだった
義元は、現在の静岡県を治める守護大名・今川氏親の五男として生まれた。
しかし義元は武士ではなく、4歳の時から僧侶の道を進んでいた。
そこには戦国大名ならではの事情があった。
義元が生まれた時にはすでに跡継ぎとして長兄・氏輝と、次兄・彦五郎がおり、家督争いで災いになるということで仏門に出されたのである。
義元は京都・建仁寺の僧侶として戦国の世とは違う、学問・仏門の中で生きて行くのが本来の姿であった。
こうして今川家の都合で出家した義元だったが、17歳ごろに兄・氏輝の命を受けて駿河に呼び戻されることになる。
義元は京都から戻って、善得寺という寺で修行をすることとなったのである。
そこには、今川家の狙いがあった。
この善得寺はただのお寺ではなく、城のような造りになっていた。
善得寺があった場所は甲斐と駿河を結ぶ街道沿いで、この当時甲斐の武田氏と今川氏は緊張状態にあった。
つまり善得寺は言わば、今川氏の最前線の防衛施設であった。
義元は僧侶でありながら、国を守る任務を課されたのである。
更に当主だった義元の兄・氏輝が24歳の若さで急死した。そしてなんと同じ日に次兄・彦五郎も亡くなってしまったのである。
この時に跡継ぎに選ばれたのが、18歳となっていた義元だった。
家督争い
この決定に意を唱える人物が、義元の母違いの兄で同じく僧侶だった三男の恵探(えたん)だった。
兄弟で家督を巡っての骨肉の争いが始まったのである。
恵探側は久能山という天然の要害に籠った。
久能山には井戸があり兵糧攻めが効かなかった。義元は絶体絶命のピンチに陥ったが、京都で修行した建仁寺の縁に救われることとなる。
建仁寺では、将軍を囲んだ文化サロンのようなものがあった。
建仁寺の和尚のお付きをしていた義元は、今川家の御曹司として足利将軍家と繋がりがあったのだ。
そして義元は、その強みを活かした作戦を実行に移した。
12代将軍・足利義晴の側近が義元に送った書状には「家督相続の件を将軍がお聞きになり、とてもめでたいとのご様子です」と書かれていた。
義元は恵探よりも有利に立つために、足利将軍に家督相続を認めてもらったのである。
これは、義元の作戦の始まりでもあり、義元の真の狙いはその先にあった。
義元は当時、関東で勢力を広げつつある北条氏の支援を得られれば、有利になると考えていた。
そして北条氏は将軍家と深い関わりがあった。
つまり将軍のお墨付きは、関東の北条氏を味方につける布石だったのである。
その結果、北条氏は恵探軍を攻め、義元が今川家の当主になったのである。
将軍のお墨付きを得て、北条氏を味方にしたことで戦国大名・今川義元は誕生した。
強敵だらけ
今川家の当主になった義元だが、隣国には武田と北条という有力な戦国大名がいた。
この強敵たちと義元は、いかに渡りあったのだろうか?
その手がかりは、現在の静岡市に残されている。
義元は京都の碁盤の目と同じような道を作り、建物も京都を模した。
義元は駿府の町全体を、自分の館も含めて「小京都のような町」にしたという。
なぜ京都に真似た町づくりを行なったのか?
義元の招きで駿府に移り住んだ京都の公家・冷泉為和(れいぜい ためかず)は歌の名人であった。義元が小京都のような町を作ったのは、為和のような京都の文化人を招くためであった。
戦国時代に、なぜわざわざ京都から文化人を招く必要があったのだろうか?
そこには義元の戦略があった。
冷泉為和は、甲斐の武田家に行き度々歌会を開いていたのだが、それは武田家の内情を探るためだったと考えられている。
天文11年には武田家で何と年に11回も歌会が行われているが、実はその前年の天文10年に武田信玄が父・信虎を追放し、新たな当主となるクーデターが起きていた。
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歌会という雅な催しの裏には、義元のしたたかな狙いが秘められていたのだ。
文化人を使って敵の内情を探った義元は、武田信虎の娘を娶って婚姻関係を結び、信玄の娘が北条に嫁いだ。
こうして今川・武田・北条の三国同盟が締結されたのである。
領国を接していた3つの大大名が1つになり、この三国同盟は10年以上に及んだ。
政略結婚と文化を駆使した外交戦略で、義元は独自のやり方で戦国の世を渡っていったのである。
桶狭間の戦い
桶狭間の戦いは、義元が大高城を救出するために尾張に出陣したことがきっかけとされている。
大高城は現在の名古屋市にあった城で、義元にとっては尾張の信長と戦うための前線基地だった。
しかし大高城は、信長が築いた4つの砦に囲まれて落城の危機に瀕していた。
永禄3年(1560年)5月、義元は2万5,000の兵を率いて出陣し、総力戦で挑んだ。
はたして、当時の織田軍はそれほどの強敵だったのか?
信長が作った砦の1つ、丸根砦の大きさは約30m四方でそれほど大きな砦ではなかった。
丸根砦にいた人数は500人ほどで、4つの砦を合わせても織田軍は合計2,000人ほどだ。
一方、今川軍はその10倍以上の2万5,000の軍勢で、大高城の救出にしては今川軍の軍勢は余りにも多かった。
その理由として考えられるのは、大高城を任されたのが鵜殿氏だったことである。
鵜殿氏は元々熊野水軍で高度な軍事力を持っていた。
義元は水軍の力を利用するために、鵜殿氏を大高城に置いたと考えられる。
戦国時代の大高城は上記画像のとおり、すぐ側が海であった。
義元は大高城を救出し、そこを拠点にして水軍の力によって織田家を一気に滅ぼす戦略を立てたと考えられている。
また、5月に出陣したのにも大きな意味があった。
義元が北上しようとした伊勢湾は、季節によって風向きが大きく変化した。
この当時の5月は現在の6月、伊勢湾の風は南から吹いていた。
義元は大高城から船に乗って熱田方面に向かう際に、南風であっという間に伊勢湾を北上することまで考えていた可能性が高い。
しかしこの時期は梅雨で、大雨の中で桶狭間の戦いになり、義元は逆に信長に討たれてしまったのである。
おわりに
今川義元は、公家かぶれの軟弱な大名ではなかった。
義元は極めて不利なポジションから出発し、自分自身の才覚と実力で今川家当主の座を勝ち取った。
東海道を有する駿河は交通の要所で、武田や北条からすれば手に入れたい土地だったはずだ。
しかし義元は文化を用いた独自な方法で敵の様子を探り、政略結婚で戦国最強とも言われた三国同盟を結び、結局義元が亡くなるまで攻められることはなかった。
風を計算して5月に出陣した義元だったが、まさか梅雨が自分の命取りになるとは思ってもいなかっただろう。
敗れてしまったものの、今川義元はかなりの戦略家であったのである。
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