「どうする家康」で中村勘九郎さんが演じる茶屋四郎次郎。
「一粒を買うのに山城を1つとも2つとも」と言われるほど高価な金平糖を、家康のために苦労して探し出してきた京都の商人である。
家康のピンチを何度も救い全幅の信頼を得た初代・茶屋四郎次郎とは、いったいどんな人物だったのか。
茶屋四郎次郎の出自
初代・茶屋四郎次郎清延(ちゃやしろうじろう きよのぶ)は、天文14(1545) 年に生まれた。
もとは武士の家系だったが、信濃守護・小笠原長時の家臣だった父、中島明延が武士の身分を捨て、京都で呉服商をはじめたのが商人としての出発点である。
「茶屋」は屋号で、父・明延の以前の主君・長時とともに将軍・足利義輝がしばしば茶を飲みに屋敷に立ち寄ったことから、「茶屋」と称するようになった。
「四郎次郎」は、父の中島明延が四男、清延が次男だったため「四男の次男」という意味で「四郎の次郎」、「四郎次郎」となった。ちなみに明延は「四郎」と名乗っていたようである。
清延以来、当主は代々茶屋四郎次郎を襲名している。
戦国時代の商人
清延が生まれた戦国時代は、戦に勝つため武器や武具、兵糧から人夫まで膨大な物資が必要とされた。
その調達にあたったのが商人たちであり、戦国大名は商人の力を借りる対価として、特定の商人を御用商人に任命し様々な特権を与え庇護した。
こうして戦国大名と御用商人の関係が構築されていった。
家康との関係
清延と家康の出会いは、永禄年間(1558~70年)と言われている。
家康が今川家から独立した後、三河まで営業に出掛けた清延は、家康と昵懇の間柄となった。
清延は三河の大名徳川家の御用商人として、上方から呉服などを仕入れた。
また戦に必要な諸道具の調達のため、家康に従って合戦にも供奉している。三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、小田原の合戦など、参戦した数は53回にもなる。
こういった功績が認められ、橘の家紋を賜ったとされている。
伊賀越えでの功績
天正10(1582)年の「伊賀越え」は、家康の生涯における最大の危機として有名である。
清延は商人ならではの機知で、家康を助けることに成功した。
家康が堺で織田信長が討たれたという報を耳にしたとき、同行していた家来は酒井忠次、本多忠勝、穴山梅雪を含めわずか数十名だった。このような手薄な状態で明智光秀の追っ手や、褒賞目当ての山賊や野武士、農民などの襲撃に合えば命はない。
まさに「どうする家康」の絶望的な状況に、家康は一時は切腹まで考えたが、側近たちに説得されて三河への帰還を決意。
そして最短ルートの伊賀越えが選ばれたのである。
清延は甲賀、伊賀、伊勢の有力者と顔見知りだった。さらに商売柄その土地に詳しかった。清延は家康を救うべく、先導役を申し出て策を講じたのである。
それは、銀子(ぎんす)を使って家康の行く先の安全を確保することだった。家康たち一行の先を行く清延が、「これは家康様から下賜されたものだ。丁重にお迎えせよ」と地元の有力者に銀子(ぎんす)を渡して歩いたのだ。
銀子の力は絶大で、地元の者たちは家康に感謝し、警備を担うものさえいた。
清延は、手元の銀子が尽きれば借財をしてなんとか都合をつけ、無事家康たちが帰還できるよう尽力した。
商人ならではの強みと機転。家康は清延に全幅の信頼を寄せるようになったのだった。
豊臣政権下で隠密御用をつとめる
豊臣秀吉の政権下では、清延は上方の情報を家康に密かに報告するスパイ・隠密御用の職もつとめた。
また、征夷大将軍職宣下をにらみ秘密裏に行われた家康の対朝廷工作にも、隠密として関わっている。
清延は商人という表の顔とともに、政治の舞台裏で暗躍する裏の顔も持っていたのである。
家康の関東移封の際には、清延は江戸市中の町割りに参画し、城下町建設に一役買った。
家康からの信頼はどこまでも厚く、数々の功績に対して「江州の代官に取り立てる」という申し出があった。
しかし清延はその申し出を辞退した。
その後も呉服御用達として仕え、天下人・家康を見ることなく、慶長元年(1596)に52歳で亡くなった。
二代目、三代目の活躍
二代目・茶屋四郎次郎を襲名した清延の嫡男・清忠は、家康の側近として公儀呉服師をつとめた。
特に関ヶ原の戦いでは、後方支援で大きな功績をあげている。
三代目・清次は、公儀呉服師のほか、家康の側近として長崎奉行の補佐や、大坂の陣では戦略の一旦を担うなど多方面で活躍した。また、朱印船貿易で莫大な富を得て、角倉家、後藤家とともに「京の三長者」と言われる財を成している。
参考文献 工藤 章興 『徳川家康と戦国時代 家康のコンサルタント 茶屋四郎次郎 (歴史群像デジタルアーカイブス) 』
この記事へのコメントはありません。