令和4年(2022年)NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。皆さんも観ていましたか?
第2回放送「佐殿の腹」に初登場、第9回放送「決戦前夜」で梟首(さらし首)にされた大庭景親(演:國村隼)。
囚われてなお「どっちが敗者か分からんな」と言わしめた堂々たる最期でした。
さて、そんな景親には兄弟がおり、今回は長兄の大庭景義(おおば かげよし。景能とも)を紹介したいと思います。
大庭景義が任じられた懐島権守とは
彼は弟と違って、源頼朝(演:大泉洋)の挙兵から付き従った鎌倉殿の最古参。
ただし保元の乱(保元元・1156年)で左膝をやられていたため武勇の方は今一つで、ブレーンとして活躍しました。
そんな景義は懐島権守(ふところじまごんのかみ)に任じられておりますが、聞き慣れない官職ですね。
~守というのは国司の一等官(最高位)。しかし相模守や伊豆守ならともかく、懐島なんて律令国はありません。ちなみに懐島(懐嶋)とは現在の神奈川県茅ケ崎市(相模国高座郡)に当たります。
果たしてこれは何を意味しているのでしょうか。
結論から言うと、これは「懐島に住んでいる権官の国守(ここでは相模権守)」を意味します。
権官(ごんかん)とは「仮」「定員外」を表わし、統治の実権を持たないいわゆる名誉職でした。
ちなみに国司の二等官である介(すけ)を称した事例としては、三浦介義澄(演:佐藤B作)。これも「三浦に住む相模介」を意味しています。
他にも狩野介茂光(演:米本学仁。工藤茂光)などがいましたね。彼は「狩野に住む伊豆介」です。
頼朝上洛のハレ舞台に同行
さて、景義の称した懐島権守の意味が分かったところで、次は彼が懐島権守を称した時期を調べてみましょう。
鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』を確認すると、景義が初めて懐島権守を称したのは建久6年(1195年)3月10日。頼朝の上洛に供奉した時のことです。
將軍家爲令逢東大寺供養給。着御于南都東南院。自石淸水。直令下向給云々。
供奉人行列……(中略)……懷嶋平權守入道
〔カチンノ直垂。サキノミノケニテトツ。押入烏帽子。弓手鐙ハスコシミシカシ。保元ノ合戰ノ時イラルゝ故也。〕……※『吾妻鏡』第十五巻・建久6年(1195年)3月10日条
【意訳】頼朝は東大寺供養のため、奈良の東南院に到着された。石清水八幡宮の参拝より直接向かわれたとのこと。供奉人の行列は以下の通り。(中略)
懷嶋平權守入道(大庭景能)
勝色の直垂、前は鷺(サギ)の蓑毛(みのげ)を紐に編んだ緒でとじている。押入烏帽子(おしいれえぼし。揉烏帽子)をかぶり、乗馬の鐙(あぶみ。足乗せ)は弓手=左側が少し短い。これはかつて保元の乱で源為朝(みなもとの ためとも)に左膝を射切られたためである。
ちなみに上洛直前の2月9日、景義は上洛に加えてもらえるよう泣きついています。
大庭平太景義入道捧申文。是自義兵最初抽大功之處。以疑刑被追放鎌倉中之後。乍含愁鬱。已歴三ケ年訖。於今者餘命難期後年。早預厚免。列今度御上洛供奉人數。可備老後眉目之趣載之。仍則免許。剩可令供奉之旨蒙仰云々。
※『吾妻鏡』第十五巻・建久6年(1195年)2月9日条
【意訳】大庭平太景義が上申書を提出。文中に曰く「それがしは鎌倉殿の挙兵以来、忠義を尽くして参りました。しかしながら、濡れ衣によって鎌倉を追われ、悲嘆と鬱屈の日々を送っております。あれから既に三年目を迎え、もう余命いくばくもありません。どうか罪をお赦し下さり、上洛の列にお加えいただけないでしょうか」と云々。訴えを聞いた頼朝は景義の罪を赦し、上洛への供奉を認めたとのこと。
時をさかのぼること2年前、景義は「特に理由なく」出家していました。
大庭平太景義。岡崎四郎義實等出家。雖無殊所存。各依年齢之衰老。蒙御免。遂素懷畢云々。
※『吾妻鏡』第十三巻・建久4年(1193年)8月24日条
【意訳】大庭平太景義、岡崎四郎義実らが出家した。ことさら理由はないが、それぞれ老齢のため許可をとり、かねての念願を果たしたとのこと。
岡崎義実(演:たかお鷹)と共に出家した理由については諸説あり、曽我兄弟の仇討ち事件(建久4・1193年5月28日)に関連した謀叛の疑いとも見られています。
欝々として暮らす中、頼朝が上洛すると聞いた景義は「挙兵以来ずっと忠義を尽くしてきたのだから、せめて佐殿が京都へ返り咲くハレ舞台を、どうか見届けさせて欲しい」と訴えました。
「分かった分かった……四郎(岡崎義実)ともども、上洛の供奉を許してつかわそう」
「「ありがたき仕合せ!」」
かくして二人とも罪を赦され、上洛に加わったということです。
頼朝の推挙で正式に任官した?
『吾妻鏡』を見る限り、大庭景義が懐嶋権守に就任したのは建久6年(1195年)2月9日~3月10日の間と推定されます。
上洛に際して頼朝から与えられた=名乗り(官途)を許されたのか、それとも勝手に自称したのか。
しかし朝廷に近づく訳ですから、勝手に官職を名乗るのはいかがなものでしょうか。ハレの上洛に先立って頼朝が朝廷に推挙した可能性も考えられます。
そもそも先日まで謹慎させられていた身ですから、勝手に名乗ったら頼朝の勘気を蒙りそうです。
となると可能性は(1)頼朝の推挙によって正式に朝廷から名乗りを許されたか、(2)頼朝が個人的に名乗ることを許したか、となるでしょう。
室町~戦国時代あたりになると(2)のパターンが増えてくるものの、鎌倉時代であればまだ(1)の方が多いようです。
だから大庭景義の懐嶋権守は、朝廷から正式に任じられたものと見られます(ただし朝廷側の任官記録が確認されるまでは、あくまで推測に過ぎません)。
もしかすると、頼朝がハレの上洛に際して「懐島の爺さんにも、何か肩書をやろうかな」と推挙した可能性もありますね。
ちなみに、岡崎義実は特に何も与えられていません。やはりアピール力の違いがモノを言ったのでしょうか。
終わりに
上洛から15年の歳月を経た承元4年(1210年)4月9日、景能は世を去ったのでした。
懷嶋平權守景能入道於相摸國率。
※『吾妻鏡』第十九巻・承元4年(1210年)4月9日条
【意訳】懐島(ふところじま)の平権守景能(たいらの ごんのかみ かげよし)入道が、相模の国において卒した(亡くなった)。
名前の表記が景義と景能でゆれていますが、これは養和元年(1181年)辺りから景能表記があらわれはじめ、次第に景能が優勢になっていきます。
『吾妻鏡』をカウントしてみたら、大庭景義の登場回数はすべてで39回。うち景義は17回、景能は19回。残り3回は大庭平太が1回、懐島権守入道が2回でした。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」には登場しませんでしたが、鎌倉幕府の草創に多大な貢献を果たした大庭景義。どうかその存在を、覚えておいていただければ幸いです。
※参考文献:
- 小和田哲男『日本史に出てくる官職と位階のことがわかる本』新人物往来社、2009年10月
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 1 頼朝の挙兵』吉川弘文館、2007年11月
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 6 富士の巻狩』吉川弘文館、2009年6月
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 7 頼家と実朝』吉川弘文館、2009年11月
- 御家人制研究会 編『吾妻鏡人名索引』吉川弘文館、1992年3月
- 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
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