大正&昭和

女医がクズ夫を毒殺しようとした 【チフス饅頭事件】 ~女医は出所後に市議に当選

チフス菌入り菓子折

【チフス饅頭事件】

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昭和14年(1939)4月26日、兵庫県明石郡西垂水町の須磨病院副院長・佐藤幹男(37)の元に、神戸市内の某百貨店から送り主が匿名の菓子が届き、同家は何気なくそれを受け取った。

28日、幹男の妹で小学校教諭・文子(30)が勤め先の小学校に菓子を持参し同僚達に分けたのだが、29日からなんと十数人の教諭達が腸チフスを発病した。

また、幹男の実弟・律男(32)は死亡してしまった。

湊川署は県刑事課の応援を求め、事件の調査を進めていくとその内容が明らかになった。

【チフス饅頭事件】

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昭和6年(1931)、佐藤幹男は女医・広瀬菊子(37)と結婚した。

菊子は高知県出身で、東京女子医専(現・東京女子医大)を優秀な成績で卒業し、実家は地方の名家であった。

しかし結婚後、幹男は「俺はどうしても博士になりたい」という強い意志を示したため、菊子は幹男のために女医として稼いだ金を幹男の研究資金として提供した。さらに幹男の研究の邪魔にならないようにと別居生活をしたのだった。

ところが昭和11年(1936)、幹男は無事に博士の学位を得たにも関わらず、菊子との同居を拒み、態度も日増しに冷たくなっていった。菊子は幹男との生活を望んでいたが、幹男の愛を戻すことはできないと感じるようになった。

菊子は自身の捧げてきた愛を踏みにじられたことに激高し、ついに幹男に復讐することを決意した。

そして事件が起こる少し前の4月上旬、菊子は神戸市内にある細菌研究所から「チフス菌」を入手し、4月25日に神戸市内某百貨店で菓子を購入し、トイレでその菓子にチフス菌を混入した。そして百貨店から幹男の元に匿名で発送したのだった。

使用した菓子は「かるかん饅頭」だった。

【チフス饅頭事件】

画像 : かるかん饅頭 wiki c 毒島みるく

なぜそれにしたかというと、かるかん饅頭は皮がなく乳白色をしており、培養基で培養したチフス菌も乳白色だったことと、チフス菌混入の注射液が吸収されやすく都合が良かったためであった。

また使用したチフス菌は1種類ではなく、「腸チフス菌」「パラチフスA、B菌」の3種類を混ぜていた。幹男が腸チフス菌の予防注射をしている可能性があるため、パラチフスA、B菌の2種類を混ぜて、100%の感染効果を狙ったのだった。

菊子は前年の4月から1年間にわたり、毒殺効果の研究を積んでいたのである。

世間からの同情

菊子は湊川署に身柄を収容された。

彼女は刑事から、幹男だけでなく学校の教諭達が発病したことや死者が出たことを聞かされると「誠に申し訳がありません」と泣き崩れ、そのショックは大きい様子であった。

女性の愛を裏切った男に対する復讐として「チフス菌入り饅頭事件」が新聞に報道されると、大きなセンセーションを巻き起こした。そして世の中から菊子に対する同情論が沸き起こったのだった。

当時の湊川署長の元にも毎日数十通の投書が舞い込んだ。そのほとんどが男の厚顔無恥と情け知らずを責め、弱い女性への同情を訴えたものであった。

その後、菊子は神戸弁護士会人権擁護委員会の弁護士と面会した。委員会は代表者を選んで本件の弁護に立ちたいと申し出たという。

画像 : 佐多愛彦(1871-1950) public domain

また、大阪医大(現・大阪大医学部)元学長・佐多愛彦は、幹男の「博士号」について

「どんな犠牲を払っても博士号を得ようとする表れは、明治時代の官学の秀才教育の悪い遺風であり、それには男性の醜い功利主義の残滓(残りかす)が見られると思う」

と断言した。

このように、メディアはどんどん幹男を「悪者」にして、菊子を「犠牲者」に仕立て上げていったのである。

公判

昭和14年(1939)6月15日、菊子は殺人と殺人未遂罪で起訴され、神戸地裁での一審公判は10月5日から3日間行われた。
初公判では、運よく傍聴券を手に入れた人々が午前7時頃から法廷に詰めかけ、8時半には人々で法廷が埋め尽くされ、一般傍聴席の8割が女性であった。

裁判長と菊子の尋問と供述において、菊子が述べた内容をまとめると以下のようなものであった。

・復讐の目的の相手は幹男が主であり付属してその家族であったが、チフス菌が必ず罹るという確信はなかった。小学校の教諭達など他の人が菓子を食べるということに関しては考えていなかった。

・幹男と知り合ったのは、昭和4年(1929)7月、私が神戸の市民病院に勤務していた時、京大医学部学生として幹男が見学に来た時に知り合った。文通を始め、1年後に再び幹男が見学に来た時に相当親しくなった。

・昭和5年(1930)8月、幹男から結婚の申し込みをされたが、学生であることや陰気な性格のように見えたことから1度断った。その後、幹男から手紙がきて、幹男の両親が結婚を承諾したことを知らせてきた。9月中旬、幹男が訪ねて来ていろいろ身の上のことを話し合った。

・昭和6年(1931)4月、幹男が大学を卒業し、神戸市湊区千鳥町の幹男が借りた家で式を挙げた。それから幹男は京都で下宿しながら学校の研究室に通うようになり、別居生活が始まった。結婚後の最初の1年間は幹男に月平均60円(現在の価値で約13万)、その後、月平均70円(約15万)の学費を送っていた。

・4月に結婚し、翌月には高知で開業するという慌ただしさで生活も苦しかった。夜中でも車の通らない山道を自転車で走り、夢中で往診に回り、ある時は薬局の見習いの子に給料を待ってもらった。

・昭和11年(1936)5月、幹男は医学博士の学位を得たため、私は喜んで幹男の元に駆けつけた。5年間で幹男に貢いだ学費は約4千円(約860万)にのぼった。私は幹男に同棲を強要したりはせず、ただ将来の方針を立ててほしいと頼んだ。しかし、幹男はすでに他の女性と交際をしており、独身を装ったりしたため、そんな幹男の姿を見て不愉快に思った。

・その後、垂水町でようやく幹男と同居を始めたが、幹男は私に「なるべく2階にいるように」と言って、私の履き物を隠したり、洗濯物も女中にこっそり洗わせるなどして邪魔者扱いした。幹男が早く帰宅した日も、幹男は女中と三味線を弾いたり父と3人で花カルタをしたりして、私にかまうことなくはね者にした。

・そんな生活も辛抱していたが、昭和12年(1937)2月、ついに別れることになり、その際に幹男は「自分は博士になりたくなかった、地位や名誉は要らない」などと言っていた。

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2日目の午前の公判では、離婚の際のやりとりが取り上げられた。

離婚交渉では最終的に、幹男が菊子に7千円(約1190万)を昭和13年(1938)中に3回分割で支払うということで決着した。
しかし、菊子は離婚は解決しても、自分を踏み台にして学位を得た幹男が何ら恥じることなく新しい妻を迎えようとしていることに、憎しみを感じるようになった。

昭和13年(1938)4月中旬、木村細菌研究所を訪ねた際に、細菌培養基がたくさん並んでいるのを見て「幹男がチフスにでもなり、苦しめば良いのに」と考えてチフス菌をもらってきたという。しかし、実際に幹男がチフスを罹ったのを知った時は複雑な気持ちで報復の快感はなかったという。

午後からは幹男が証人として出廷した。
チフスを罹っていたが、その後すっかり健康を取り戻していた。幹男が述べた内容をまとめると以下のようなものであった。

・菊子に結婚を申し込んだ際に苦境を訴えたら、菊子が自ら「働いて学資を送る」と申し出た。

・夫婦愛の現れだと思うし感謝もしているが、学位を得る少し前から菊子に対して嫌気がさしていた。それは菊子が自分の両親を侮辱するような態度をとったからである。

その後、菊子は被告席に呼ばれて幹男と対面し、質問を求められたが「今更聞くことはない」と答えた。

3日目は菊子の実兄や勤務先の院長夫人ら多数の証人が証言した。また、菊子は「自分から幹男に送金していたことは、誰にも話していなかった」と述べた。

そして10月14日、検察側は無期懲役を求刑した。
担当していた検事は菊子に対して同情的な論告をしていたため、予想外の重い求刑に傍聴席はざわめいたという。

求刑後、菊子の弁護士は約3時間にわたり弁論した。

弁護士は「チフス菌による死亡率は低いため、それで殺意があるとするのはあまりにも飛躍である」と主張し、「殺人ではなく傷害致死である」と述べた。
さらに「実質的には被告が被害者である」として情状酌量を訴え、執行猶予の恩典にあずかろうとしたのだった。

そして昭和14年(1939)11月、傷害致死と傷害未遂が適用され、菊子に懲役3年の判決が下された。

この判決は被告・弁護側の主張に沿った寛刑であった。傍聴席は大喝采であったという。

その後、検察側は即日控訴し、翌昭和15年(1940)3月、大阪控訴院での判決は未必の故意を認定し、殺人と殺人未遂を適用して懲役8年の刑を言い渡した。

同年6月27日、大審院は上告を棄却し、刑が確定したのだった。

戦争の時代

画像 : 国民精神総動員 雄飛報国之秋(大日本帝国政府のポスター)public domain

この時代、昭和12年(1937)に発足した第一次・近衛文麿内閣は、国民精神総動員運動(日中戦争開始後、挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として始めた戦争協力の教化運動)を推進した。

銃後」(戦場の後方という意味で、戦時の一般国民社会を示す)という言葉が広がっており、そこでは「家庭は仲良く、妻は夫を支えなくてはならない」とされ、まかり違っても夫の殺害を図る妻など存在してはならなかった。

一審を担当した検事が、菊子に同情的だったにも関わらず無期懲役を求刑したのも「心情的に理解できても戦争の時代がそれを許さない」といった状況だったのだろう。

菊子は京都府の女囚刑務所に服役したが、模範囚であったため昭和18年(1943)4月に帰宅を許された。刑が確定してからわずか3年ほどである。

その後、中国に渡り竜烟鉄鋼付属病院に勤務し、昭和21年(1946)に郷里である高知県に引き揚げてきた。

菊子は国内では医師免許を剥奪されていたが、「悩める女性の力になりたい」と考えており、そんな時に地元紙に取り上げられた。
そして周囲から推されて市議選に出馬することになり、女性議員として最高点で当選したのである。

他にも高知県内を巡回して生活保護受給世帯の調査を行っていたという。市議は1期のみだったが、それから医師免許が戻り勤務医として活躍した。

その後、静かな余生を送ったという。

参考文献 戦前昭和の猟奇事件 文藝春秋

 

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