生と死の距離感
人は死んだらどうなるのか?
人類にとって結論の出ない永遠のテーマの代表格である。
死後の世界は存在するかと聞かれたら、それを証明する事は出来ないので個人的には否定的なスタンスであるが、古代エジプトや古代中国といった紀元前や四大文明の頃にまで遡ると、生の死の距離は現代よりも遥かに近く、死者は見えないだけで「そこに存在している」ものだった。
今回は、古代中国の死生観を考察する。
始皇帝の墓
最初に生と死の距離という言葉を使ったが、秦の始皇帝として有名な嬴政(えいせい、諸説あり)の墓に当時の死生観が見られる。
『史記』によると、始皇帝の墓は「死後も自分が暮らせる宮殿」となっており、月や太陽、星が宝石で表現され、水銀の川が流れるなど明らかに死後の世界を意識したものだった。
横山光輝が『横山三国志』の後に連載した『項羽と劉邦』では、咸陽を制圧した項羽軍が始皇帝の墓を暴く場面が描かれているが、そこは墓というよりも死者が暮らす「宮殿」であり、埋葬品の財宝は30万の兵士が30日掛かっても運び出せないほどだった。
70万人の囚人を使って完成まで38年も要したという記述を見たら、ここまで書いて来た事も決して大袈裟ではない気持ちにさせられるが、現在始皇帝の墓で分かっているのはほんの一部であり、噂の宮殿はまだ存在が確認されていない。(完成後は事実を漏らさないよう生き埋めにされた)
1974年に兵馬俑が発見され、伝説だった始皇帝の墓が実在したことが判明してまだ50年弱という事実にも驚くが、当時の死者の世界を知る意味でも重要な手掛かりとなるこの墓はほとんど発掘されておらず、死後の始皇帝が暮らす宮殿が世に出る可能性もほぼゼロである。
専門家によると「発掘による破損の恐れがあり、慎重にならざるを得ない」との事だが、地質調査の結果「水銀の蒸発」が発見され、人体への危険が避けられない事も理由の一つになっている。
史記に書かれている「始皇帝の墓を守る罠」が本当にあるのかというのも気になるが、どれだけ夢があっても命に勝るのもはない。
「発掘したら水銀の川に飲み込まれる」という言葉の信憑性は正直疑問ではあるが、一部とはいえ兵馬俑が発見され、始皇帝が生前と同じような生活が出来るように(これまでの生活をあの世にも持って行く)という当時の死生観を見られただけでも幸せと思うべきだろう。
玉衣とは
日本にも死装束というものがあるが、昔の中国にも死者の着る衣類が存在した。
皇帝の遺体には金縷玉衣(きんるぎょくい)という全身鎧のような葬服を着せられ、玉の霊力によって肉体を永遠に保たせようという願いが込められていた。(玉石を使うと1000年は腐敗しないと信じられていた)
興味深い記事があったので引用する。
劉備の先祖と言われる劉勝の墓は1968年に発見されたが、劉勝が纏っていた玉衣は玉片2498枚、金の糸約1100グラムが使われた非常に豪華なものだった。(玉に開けられた穴を糸で縫って繋ぎ合わせるのだが、使われた糸の色によって名前が変わり、その糸の違いによって「金縷玉衣」「銀縷玉衣」「銅縷玉衣」と呼ばれる) http://j.people.com.cn/n3/2023/1018/c206603-20085116.html
劉勝の金縷玉衣は完成までに10年の歳月を要しており、歴代皇帝の「永遠の生」のための努力と執念は凄まじいものだったことが分かる。
死してなお豪華な生活を送った皇帝だが、金縷玉衣はこれまで5点しか見付かっていない。
元々、皇帝やそれに準ずる身分の高い貴族しか金縷玉衣を着る事を許されないのだから絶対数が少なく、その上で約2000年前の遺品が綺麗な状態で現在に残っている方が稀なので、当然といえば当然ではある。
さらに、「王や皇帝の墓」というこれ以上ないほど目立つ、半ば名所のような墓であれば盗掘されない方が難しいだろう。
そういう意味では、始皇帝の墓は完璧すぎるセキュリティである。
曹丕が変えた文化
始皇帝や劉勝の例を見ると、死んでからも金が掛かっている印象を受けるが、時代が進むにつれて死に対する考え方も現実的なものに変化する。
特に魏は顕著であり、曹操も、曹丕も、自身の墓は質素なもの(薄葬)にするよう言い残している。(曹操の遺言や金欠だった自身の財政事情との関係は不明だが、重臣だった夏侯惇の埋葬品が剣1振りのみだった事も有名な話である)
「墓荒らしの逮捕をきっかけに調査された墓が、曹操のものであった」というニュースが、世界中の三国志ファンに衝撃を与えてから久しいが、発掘が進み墓や副葬品が明らかになるにつれて、曹操の墓は遺言に反してその生涯に相応しい豪華なものだった事が明らかになっている。
曹操の墓、世界最古の白磁
「質素」という言葉の解釈にもよるのだろうが、少なくとも250点以上の副葬品とともに埋葬されたのであれば、筆者の感覚では豪華な墓である。(しかも白磁の歴史を変える可能性まで持っている重要な遺跡であり、別の意味でも注目されている)
曹丕に関しても遺言で「自分の墓は簡素なものにして、装飾も玉衣も不要」と残している。
残念ながら曹丕の墓は完全には特定されておらず、それらしき場所の発掘もされていないため、副葬品の有無や本人が望んだ薄葬だったかは不明である。
しかし「死後の世界」のために大金や労力を使う文化が目に見えて変わったのは三国時代であり、中国の死生観を大きく変えた時代であったといっても過言ではないだろう。(勿論、曹操の前にも派手な墓を嫌った者も存在しただろうが、流れが変わったのが三国時代である事に変わりはない)
2000年以上経っても変わらないもの
ここまでは「死後の世界」や「墓」を中心に古代中国の死生観を書いてきたが、2000年以上経っても変わらないものも存在する。
昔、テレビで職業として「人の葬儀に現れて、大袈裟なまでに泣きわめく人」が紹介されていた。
これは「泣き女」といって古くには日本にも存在したようだが、中国ではとにかく泣く事が死者に対する弔いとされていた。
ドラマ『三国演義』第77回『死せる孔明、仲達を走らす』では、諸葛亮の葬列において出迎える劉禅を初め、棺を届ける姜維、何故か姜維の隣にいる孟獲、そしてモブまでみんな泣いている。
紙吹雪の如くばらまかれた紙銭(死者があの世に持って行くお金、冥銭ともいう)だけでも1トン以上使われたと言われるこのシーンは、少なくとも放送時は連続ドラマの葬儀で最も金を使ったと思われる回である。(現在も冥銭はアジアを中心に存在している地域は多い)
ドラマなので多少オーバーな部分もあるだろうが「泣いて弔い、餞別にあの世へのお金を持たせる文化」は当時から現在まで続く、変わらない中国の死生観である。
この場面にはもう一つ、現在まで続く中国ならではのものがある。
ドラマや漫画を見て分かる通り、三国志は葬儀の場面で総じて白装束を着ているが、泣き女も白装束であるように、現在も中国に於いて「白」は忌避される色である。
勿論、時代の変化とともに考え方も変わって「白いウェディングドレスを着たい」という女性も増えているそうだが(中国の婚礼衣装は赤)、白が縁起の悪い色という見方は未だに強いので、中国人と接する時は白い服を避けるのがベターである。
参考 : 『史記』他
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