どうする家康

徳川家康に保護され、生き永らえる今川氏真。その子供たちを一挙に紹介!【どうする家康】

かつて「海道一の弓取り」と讃えられた名将・今川義元の跡目を継ぎながら、一代にして三ヶ国(駿河・遠江・三河)を失ってしまった今川氏真

その後、彼はどうなったのでしょうか。また、彼に子供はいたのでしょうか。

今回は江戸時代の系図集『寛政重脩諸家譜』より、今川氏真とその子供たちを紹介。

もう「どうする家康」には登場しないでしょうが、雑談のネタにいかがでしょうか。

今川氏真の生涯を駆け足でたどる

画像 : 今川氏真 public domain

●氏真

五郎 彦五郎 上総介 刑部大輔 従四位下 入道号宗聞 母は信虎が女。

天文七年駿河国に生る。永禄三年五月八日従四位下に叙し、義元戦死の後遺領を継。十一年十二月武田信玄駿府に出張し、急に居城を攻。氏真防ぎ戦ふといへども、勢ひ屈して終に城をさけ遠江国掛川にうつり、のち北條氏康がもとにいたりて寓居す。元亀元年十二月また浜松にのがれ来りて、東照宮を頼みたてまつりしかば、その流落を憐みたまひ、懇に御撫育あり。そののち近江国野洲郡のうちにして、舊地五百石をたまひ、慶長十九年十二月二十八日卒す。年七十七。豊山栄公仙岩院と號す。市谷の萬昌院に葬る。後この寺を牛込にうつさる。室は北條左京大夫氏康が女。

※『寛政重脩諸家譜』第九十四 清和源氏(義家流)今川

せっかくなので、まずは氏真自身の記録から読んでいきましょう。

今川氏真は天文7年(1538年)、駿河国で義元の嫡男として生まれました。母は甲斐の武田信虎(信玄父)の娘、武田信玄にとって甥に当たります。

元服して通称を五郎または彦五郎、後に上総介・刑部大輔などを歴任しました。

永禄3年(1560年)5月8日、従四位に叙せられ、順調な人生を駆け出した……と思ったらその数日後、まさか同じ月に父・義元が討死するとは夢にも思わなかったでしょうか。

果たして今川の家督と遺領を継いだ氏真ですが、永禄11年(1568年)に武田信玄が盟約を破棄して駿河へ侵攻。時同じくして西からは徳川家康からも攻め込まれ、たちまち駿河を奪われてしまいました。

氏真は遠江国の掛川城へ逃げ込み抵抗したものの遂に降伏、妻の実家である相模の北条氏康の元へ逃げ込みます。そこでしばらく保護されたものの、ほどなくして氏康が亡くなると、雲行きが怪しくなりました。

北条の家督を継いだ嫡男の北条氏政と折り合いが悪かったのか、氏真は相模国を退去。かつて自分を追い落とした家康の世話になったのです。

この時の無念さは、いかばかりだったでしょうか。普通なら考えられませんが、やむにやまれぬ苦渋の決断だったものと思われます。

その後、家康の保護下で近江国野洲郡に所領500石を賜り、慶長19年(1614年)12月28日に77歳で世を去ったのでした。

家康が亡くなる2年前ですから、大河ドラマでは最終回近くまで生きることでしょう。再登場はなくてもいいですが、あるかも知れませんね。

今川氏真の長男・今川範以

範以

五郎 左馬助

慶長十二年十一月二十七日山城国にをいて死す。年三十八。妻は吉良上野介義安が女。

※『寛政重脩諸家譜』第九十四 清和源氏(義家流)今川

元亀元年(1570年)生〜慶長12年(1607年)11月27日没

通称は五郎または左馬助。吉良義安の娘を娶り、嫡男(氏真の孫)今川直房を授かりました。父より早く亡くなっています。まだ38歳という若さでした。

今川氏真の次男・品川高久

今川氏真

名馬「物加波」を賜わった高久(イメージ)

高久

品川内膳言氏が祖。新六郎 品川を称す。新六郎 今川刑部大輔氏真が二男、母は北條左京大夫氏康が女。

慶長三年はじめて台徳院にまみえたてまつる。このとき物加波と名づけしところの馬を拝賜す。六年上野国碓氷郡のうちにをいて、采地千石をたまひ、寛永十年八月四日死す。年六十四。法名文音。市谷の萬昌院に葬る。のちこの寺を牛込にうつされ、代々葬地とす。妻は鷲尾筑後某が女。

※『寛政重脩諸家譜』第九十四 清和源氏(義家流)今川

天正4年(1576年)生〜寛永10年(1639年)8月4日没

慶長3年(1598年)、徳川秀忠に仕えました。この時、今川から品川に改姓を命じられたと言います。

大層気に入られたようで、秀忠より物加波という名馬を賜ったのでした。また慶長6年(1601年)に上野国碓氷郡に一千石の所領を賜ったそうです。

妻は鷲尾筑後の娘をめとり、子孫も続いていくのですが、寛永10年()8月4日に64歳で世を去りました。

墓所は萬昌院、最初は四谷にありましたが、のち牛込へ移転したそうです。

今川氏真の三男・西尾安信

安信 傳十郎 西尾を称す。

※『寛政重脩諸家譜』第九十四 清和源氏(義家流)今川

生没年不詳

通称は傳十郎、次兄と同じく今川から西尾に改姓しました。その他の事蹟について、詳しいことは伝わっていません。

今川氏真の四男・澄存

澄存

三井大阿闍梨 若王子大僧正聖護院准后道澄の弟子にして、二品親王道晃灌頂の師範、大峰の大先達、熊野三山修験道本山の奉行たり。

※『寛政重脩諸家譜』第九十四 清和源氏(義家流)今川

生没年不詳

元から出家していたようで、果てには熊野三山で奉行を務めました。父や兄妹たちと再会することはあったのでしょうか。

今川氏真の長女

女子 吉良上野介義定が妻。

※『寛政重脩諸家譜』第九十四 清和源氏(義家流)今川

生没年不詳

吉良義定(先ほど登場した吉良義安の息子)に嫁ぎました。

天正14年(1586年)に吉良義弥(よしみつ)、慶長4年(1599年)に荒川定安、慶長17年(1612年)に一色定堅を生んだと言われますが、随分と間が空いていますね。

終わりに

今川氏真

画像 : 今川氏真 public domain

【今川氏略系図】

……足利長氏-今川国氏-今川基氏-今川範國-今川範氏-今川泰範-今川範政-今川模忠-今川義忠-今川氏親-今川氏輝-今川義元-今川氏真-今川範以-今川直房-今川氏堯(うじなり)-今川氏睦(うじみち)-今川範高-今川範主-今川範彦-今川義泰-今川義彰-今川義用(よしもち)……

※『寛政重脩諸家譜』第九十四 清和源氏(義家流)今川※家督継承順に記載。

以上、今川氏真の子供たち四男一女を紹介してきました。名門の家督は後世に受け継がれ、明治維新を迎えることになります。

歴史の表舞台からは目立たなくなっても、時代の奔流を強かに生き抜いたマイナー武将たちにも、それぞれの人生がありました。

そんな彼らの魅力を、これからも伝えられたらうれしいです。

※参考文献:

  • 『寛政重脩諸家譜 第一輯』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 小和田哲男『駿河今川一族』新人物往来社、1983年1月
角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。
 
日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。
(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)
※お仕事相談はtsunodaakio☆gmail.com ☆→@
 
このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
 
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」
https://rekishiya.com/

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 28歳の若さで亡くなった家康のイケメン四男・ 松平忠吉とは
  2. 亀姫(演 當真あみ) は史実ではどんな女性だったのか? 【母・…
  3. これぞ武士道!鳥居元忠を討った雑賀重次と元忠遺児・鳥居忠政の感動…
  4. 敵には絶対渡さない!長篠合戦で山県昌景の首級を守り抜いた志村又左…
  5. 【どうする家康】 経済力で家康を支えた茶屋四郎次郎(演 中村勘九…
  6. 「家康から嫌われまくっていた次男」 結城秀康の真実とは 〜前編
  7. 武田勝頼を滅ぼした主犯? 木曾義昌・穴山梅雪・小山田信茂…それぞ…
  8. 信長、家康、秀吉に文句を言った家臣たち 「主君に諫言した後にどう…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

毛利元就にとって何より辛かった嫡男・隆元の死因とは 「食中毒説、毒殺説」

今回は、毛利元就の嫡男、第13代当主の毛利隆元(もうりたかもと)の死の真相について触れていき…

梅毒感染の歴史 【400年間人類を苦しめヴィーナス病とも称された性病】

性感染症かつて世界において「不治の病」と称され、人類に猛威を奮っていた病気が今回紹介する「梅毒」…

江戸時代の大晦日の面白いエピソード 後編 「除夜の鐘と年越しそば」

前編では井原西鶴の「世間胸算用」から江戸時代の大晦日に関するエピソードをいくつか紹介した。…

外国人が理解しやすい「やさしい日本語」とは

グローバル化が進む日本近年、日本にも多くの外国人が仕事や留学、結婚などの理由で移住してき…

本願寺顕如について調べてみた【信長の最大のライバル】

織田信長の最大のライバル 本願寺顕如いきなりですが織田信長の最大のライバルとして思いつく…

アーカイブ

PAGE TOP