NHK大河ドラマ「どうする家康」皆さんはどうでしたか?
何やかんやであっという間の一年間でしたね。
さて「我らが神の君」こと徳川家康にはたくさんの息子がいましたが、大河ドラマには四男の松平忠吉(ただし幼少期のみ)までしか出ていませんでした。
今回は家康の十男・徳川頼宣の初陣エピソードを紹介。
時は慶長20年(1615年)、後世に言う大坂夏の陣でのことでした。
徳川頼宣プロフィール
○徳川頼宣
徳川家康の第十子、長福と称す、後従二位に叙し、権大納言に任ず、紀伊に封ぜられ、和歌山城に住す、寛文十一年正月十日薨、年七十。頼宣、天資聡敏雄邁、家康鍾愛他に異なり、本多忠勝、榊原康政、加藤清正、山名禅高等、私語して公子凌雲覆世の量あり、後来必ず大海に入り、龍門方丈の波濤を超んと言ひしとぞ。
※『名将言行録』巻之四十五 ○徳川頼宣
徳川頼宣は慶長7年(1602年)3月7日、徳川家康の十男として誕生しました。母親はお万(養珠院。秀康生母とは別人)、幼名は長福といいます。
後に従二位・権大納言へ叙せられ、のちに御三家の一つである紀州藩の初代藩主となりました。
そして寛文11年(1671年)1月10日に70歳で世を去ります。
頼宣は天性の資質を備えた英雄として家康から殊のほか鍾愛されたとか。
本多忠勝・榊原康政・加藤清正・山名禅高らは「若君は雲をしのいで世を覆すほどの度量をお持ちだ。将来必ず大海に入った龍の如く嵐を起こすだろう」と呟きあったそうです。
さて、そんな頼宣は14歳の時、大坂夏の陣に従軍したのですが……。
遅参を叱られて逆ギレ?家康を論破
……大坂夏役、家康頼宣をして後拒たらしむ、城既に陥るに及びて、徳川義直と共に茶臼山の営に至る。家康合戦ありたるに、今に成りて参りしこと遅しと言はれければ、頼宣取あへず、是を存じてこそ、二條の御城に御先手をこそ、望み候へ、夫をば御許容なく、後陣に御置成され、遅しとの御事、御詞共存ぜずと恨みて言はれければ、家康困られ、我等の誤、其方道理なりと言はる。……
※『名将言行録』巻之四十五 ○徳川頼宣
「遅い!」
駆けつけた頼宣と兄の義直(家康の九男)に対して、家康は珍しく激怒していました。
いよいよ大坂落城を目前にして、家康は後方支援を担当していた頼宣を前線へ呼び出したのですが、頼宣が到着した時にはもう城は焼け落ちていたのです。
「一体そなたは、何をボヤボヤしとったんじゃ!」
まったく、関ヶ原の時は秀忠が遅参し、今度は頼宣か……どいつもこいつもノロマばかりじゃと愚痴る家康。
当然、家臣たちは恐ろしさに縮みあがってしまいますが、頼宣だけは違いました。
「やかましい、遅参したのはそれがしではなく、父上のせいであろう!」
何だと、うぬは父親に向かって……思いも寄らなかった我が子の反抗に驚きつつもなじる家康。しかし頼宣は続けます。
「……故にそれがしは最初から先陣を承りたかったのです。にも関わらず、父上は何を思われたか、それがしをこれでもかと後衛に下げてしまったのではありませぬか!」
誰より可愛い頼宣だから、何か間違いがあってはならぬと安全な後衛に下げておいて、いよいよ落城寸前になって手柄を立てさせようと前線へ呼び出したのでしょう。
「それがしは年若くも一軍の大将なれば、小僧一人呼びつける如くすぐホイホイとは参れませぬ。そんな道理もお分かりにならぬとは……いったい父上は、何年戦さをしておいでなのか!」
初陣より半世紀以上を経た「海道一の弓取」と恐れられた家康。74歳にもなって、まさか初陣の14歳になじられては、返す言葉もありません。
「あぁ、もう分かった分かった。わしの負けじゃ」
かくして豊臣家を滅ぼし、名実共に天下無敵たらんとしていた家康は、我が子の前で負けを認めたということです。
14歳の初陣は、今日この日をおいてあるものか!
……頼宣には今日手に合はざるを無念に思ひ、頻りに落涙なり、松平右衛門大夫正綱之を見て、今日御手を合はせられずとて、左様に御せき成され間敷、御年若なれば、末永く御一代の間には、箇様なること幾度も之あるに付、御手柄遊ばさるべくと慰めければ、頼宣涙を払ひ、正綱をはつたと睨みて、なにを右衛門大夫は申ぞ、我十四歳のことが又あるかと言はれければ、家康屹度居直り、常陸殿只今の詞が鎗にて候と誉められたり。水野勝成、細川忠興を始として、其座に在り合大小名、是を聞て、虎の子は地に落れば牛を食ふ気ありと云ふ本文あり、あな怖しの御心やと、皆舌をぞ振ひけり。……
※『名将言行録』巻之四十五 ○徳川頼宣
「それにしても、無念じゃ……!」
焼け落ちていく大坂城を眺めながら、頼宣は大粒の涙を流しました。
今日は武士として前途を賭けた初陣なのに、誰とも戦わず、何の武功も立てることが出来なかったのです。
悔しくて悲しくて、頼宣は男泣きに泣いたのでした。
ただ勝ちさえすればそれでよい訳ではない。そんな武士の美学が、間違いなく頼宣にも受け継がれていたのです。
本陣に控えていた将兵も、さぞ頼宣に同情したことでしょう。
そんな頼宣を見かねて、松平正綱が慰めの言葉をかけました。
「まぁまぁ、常陸介(頼宣)様。これから戦はまだまだございますれば、武功を立てる機会などいくらでも巡って参りましょう」
左様々々、さん候……周囲の者たちも口を開き始めます。
これで並の少年ならば気を取り直すところでしょうが、頼宣は違いました。
「右衛門大夫(正綱)は何を申すか。14歳は今年しかない、初陣は此度しかない。14歳の初陣は、今日この日をおいてあるものか!」
そんなことを言われてもなぁ……しかし家康は頼宣の気魄を賞賛します。
「常陸介よ。今の言葉、まぎれもなくそなたの『鎗』じゃ!」
鎗とはこの場合、武功の意味。その心意気やよしと言ったところでしょう。とにもかくにも面目を立ててやらねば収まらないと思ったのでしょうね。
このやりとりを見ていた水野勝成・細川忠興らは口を揃えて賞賛しました。
「虎の子は、生れ落ちて乳の代わりに牛を食い殺して食うという。いやはや末恐ろしや……」
以来、頼宣は一目置かれるようになったということです。
終わりに
以上、徳川頼宣の初陣エピソードを紹介してきました。「どうする家康」本編で14歳の頼宣を拝みたかったですね。
少年とは思えない武士の心意気に感服してしまいます。他にも家康の息子たちや、その子孫たちのエピソードもたくさんあるので、また改めて紹介したいと思います。
※参考文献:
- 『名将言行録 6』国立国会図書館デジタルコレクション
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