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【ブギウギ】 笠置シヅ子の黒い噂 戦後日本で蔓延したヒロポン

笠置シヅ子につきまとうヒロポン中毒疑惑。

ヒロポンは覚醒剤の一種で、敗戦後、市中に大量に出回り深刻な社会問題となりました。

現代では「ダメ。ゼッタイ」といわれる覚醒剤ですが、なぜ戦争直後に「ヒロポン渦」と言われるほど大量の中毒者が出たのでしょうか?

笠置シヅ子のヒロポン疑惑と、戦後の覚醒剤事情について解説します。

笠置シズ子はヒロポン中毒だったのか?

画像 : 雑誌「アサヒグラフ」の表紙を飾る笠置シズ子 public domain

終戦直後の芸能界にはヒロポンが蔓延しており、当時の芸能人が中毒に陥っていたという数多くの噂が流布されています。
笠置シヅ子もその一人ですが、彼女がヒロポン中毒だったという噂には懐疑的な意見が多いようです。

噂の出どころのひとつに、歌手のディック・ミネが自著の中で語った目撃談があります。
シヅ子が全盛の頃、楽屋で注射を打ち、狂ったように部屋の掃除をはじめた」という証言です。

これは、シヅ子は自分でも悩むほどの極度の潔癖症で、ディック・ミネには異様に見えた掃除も、シヅ子にとっては当たり前のことだったと考えられています。

また、楽屋に落ちていたというヒロポンのアンプルについては、ヒロポン中毒だったマネージャーの山内が使ったものや、シヅ子のファンだった街娼が楽屋に出入りした際に使用したアンプルだった可能性が高いようです。

シヅ子は潔癖な性格ゆえにだらしないことを嫌い、服部良一の家に居候していた時には、服部の子どもたちの行儀作法を厳しく注意し、自身がきれい好きなため、掃除の仕方が悪いとお手伝いさんをよく𠮟っていたそうです。

服部はシヅ子を「質素で派手なことを嫌い、間違ったことが許せない道徳家」と評しています。

笠置シヅ子がヒロポン中毒だったというのは、あくまで噂であり、真偽のほどは定かではないようです。

ヒロポンとは?

画像. 長井長義. public domain

覚醒剤の成分であるメタンフェタミンは、明治時代に「日本薬学の祖」と言われる長井長義が、麻黄から抽出されるエフェドリンの関連物質精製の途上で製出した化合物です。当時は咳止め薬としての効果が期待され、覚醒作用や依存性は発見されませんでした。

1938年(昭和13年)にナチス政権下のドイツで、メタンフェタミンが覚醒剤「ペルビチン」として販売され、軍で利用されるようになると、日本でも同種の薬の開発を急ぐようになり、1940年(昭和15年)に参天堂が「ホスピタン」を、1941年(昭和16年)に大日本製薬が「ヒロポン」を発売しました。

そのほかにも小野薬品工業の「ネオパンプロン」、富山化学工業の「ネオアゴチン」など、1951年(昭和26年)まで23社が24の商品名で覚醒剤を製造販売していましたが、シェアの大きさからヒロポンが覚醒剤の代名詞となったのでした。

メタンフェタミンは強烈な覚醒効果と快感をもたらすため、乱用を繰り返すと強い精神依存が形成されます。しかし、乱用から依存までの期間が30か月と長く、発売当初は中毒性や依存性の問題は認識されていませんでした。
そのためヒロポンは眠気を覚まし、気分を高揚させる市販薬として薬局で販売されました。

また発売と時を待たずして太平洋戦争が開戦したため、戦時中はおもに昼夜問わず活動する兵士や夜間飛行のパイロット、勤労奉仕のため徹夜で働く軍需工場の工員などの「眠気解消」、「疲労回復」にヒロポンが利用されました。

戦後、市中に大量放出されたヒロポン

画像.メタンフェタミン製剤ヒロポンの広告. public domain

敗戦によって軍が所有していたヒロポンが放出され、また軍という大口の顧客を失った製薬会社が在庫品を一斉に販売したため、市中には大量のヒロポンがあふれていました。

薬局に行けば誰でも気軽に買うことができ、はじめは錠剤でしたが、やがて注射薬も発売されるようになります。当時はビタミン剤などの自己注射が流行しており、人びとの注射に対する抵抗感はさほどありませんでした。

ヒロポンの価格は、20錠入りで約21円、注射十本入りで81円50銭でしたが、品不足のためヤミ市では100円~200円で販売されていました。

ちなみに、当時はタバコが10本50円、日本酒1升は645円。ヒロポンがいかに安価だったかが分かります。

ヒロポンは「かっこいい流行」

画像. ヒロポンを互いに注射する漫才師、林田十郎(左)、芦乃家雁玉(右)。1948年. public domain

たばこや酒と同じ嗜好品として大流行したヒロポンは、作家や芸能人など職業柄夜間の仕事が要求される人の間で特に愛用されました。

寄席末広亭の席主・北村銀太郎によると、楽屋には200本から300本のヒロポンのアンプルが常備されていて、ほとんどの芸人がヒロポンを使っていたそうです。

また映画の撮影所では徹夜が多く、過酷な労働環境だったため、疲労回復用にビタミンやヒロポンの注射がよく使われました。

自ら覚醒剤中毒だとカミングアウトした作家の船山馨は、当時のヒロポンには、仕事に追われる多忙な人間の「かっこいい流行」とみなされる風潮があったと述べています。

流行作家や芸能人がヒロポンを使用していることが新聞や雑誌で取り上げられると、その存在や効用が一般に周知され、より多くの人がヒロポンを使用するようになりました。

その中には犯罪に手を染める少年や、浮浪児も含まれていたのです。

青少年犯罪をきっかけに、覚せい剤取締法が制定される

画像. ヒロポン児童の実態.出典:全国社会福祉協議会 [編]『社会事業』33(2), 1950-02

覚醒剤などの薬物の乱用は、依存や中毒を引き起こしますが、ヒロポンの慢性中毒では「被害妄想・迫害妄想・幻聴・体感幻覚」などの精神病性障害が現れるようになります。

1946年(昭和21年)頃から中毒患者が散見されるようになり、特に深刻だったのは青少年の中毒者の存在でした。

ヒロポンの害悪性が世間に広まるきっかけになったのが、1949年末から翌年 1月にかけて埼玉県内で起きた集団輪姦事件です。

事件に関与したとされる百数十人の青少年のほとんどが、ヒロポンと同じメタンフェタミン製剤「ネオアゴチン」の常用者で、過度の使用による中毒症状に陥り、幻覚、幻聴、妄想にかられ、集団輪姦やその他の犯罪に及んでいたことが判明しました。

この事件を契機にヒロポンをはじめとする覚醒剤の使用が大きな社会問題となり、1951年(昭和26年)7月30日、覚せい剤取締法が施行されました。

戦後の混乱期にヒロポンが蔓延した背景について見てきました。ヒロポン流行の一端には、敗戦後の陰鬱とした雰囲気を薬の力を借りて明るくしたいという人々の心の表れもあったのかもしれません。

参考文献
船山信次『〈麻薬〉のすべて』.講談社
西川伸一『戦後直後の覚醒剤蔓延から覚醒剤取締法制定に至る政策形成過程の実証研究』. 明治大学社会科学研究所
砂古口 早苗 『ブギの女王 笠置シヅ子: 心ズキズキワクワクああしんど』. 現代書館

 

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