笠置シヅ子の代表曲『東京ブギウギ』は、戦後の混乱期、何もかもを失い明日への希望を持てない人々を勇気づけた、昭和歌謡史に残る名曲です。
爆発的なヒットを記録し、笠置シヅ子を一気にスターダムへと押し上げた『東京ブギウギ』誕生の裏には、シヅ子の哀しみと苦悩がありました。
今回は、史実を元に『東京ブギウギ』の誕生について紐解いてみたいと思います。
悲しみのどん底から這い上がろうとしていた笠置シヅ子
昭和22年5月20日、笠置シヅ子のもとに、恋人・吉本穎右(えいすけ)の訃報が届きます。この時、穎右の子どもを宿していたシヅ子は出産間近となり、病院に入院していました。
恋人の死を知ったシヅ子は我を忘れて泣き叫び、その大声は病院の外まで聞こえるほどだったといいます。
6月1日、シヅ子は無事に女児を出産。穎右の遺言で、「エイ子」と名付けました。
朝から晩までわが子の世話に追われる生活がはじまり、悲嘆に暮れている暇はありません。
食い扶持が二つとなり、シングルマザーとしてわが子を立派に育ててみせるという決意を固めたシヅ子は、退院後、服部良一のもとを訪れ、自分に歌を作ってくれと懇願します。
最愛の人を失った悲しみの中、笠置シヅ子は前を向いたのです。
“「センセ、たのんまっせ」
と言われて、ぼくは彼女のために、その苦境をふっとばす華やかな再起の場を作ろうと決心した。それは、敗戦の悲嘆に沈むわれわれ日本人の明日への力強い活力につながるかも知れない。
何か明るいものを、心がうきうきするものを、平和への叫び、世界へ響く歌、派手な踊り、楽しい歌……。““このような動機と発想から『東京ブギウギ』は生まれたのである。” (引用:服部良一『ぼくの音楽人生』)
『東京ブギウギ』は、敗戦に打ちひしがれる人々とシヅ子を励ますために作られたのでした。
ブギウギとは
ブギウギ(Boogie-Woogie)とは、黒人ピアニストによって生み出されたピアノによるブルースの演奏形式の一つで、左手で繰り返される8ビートのリズムに乗って、右手でメロディーを変奏するスタイルです。
1910年から1920年代にアメリカのシカゴで、「ブギウギの父」と言われたジミー・ヤンシーをはじめとするブギウギ・ピアニストが人気を博し、1930年代末から40年代にかけて、ブギウギはダンスミュージックとしてアメリカ中に大ブームを巻き起こしました。
1950年代中期になると、ブギウギの8ビート奏法の影響を受けてロックンロールが誕生します。この頃は、リトル・リチャードに代表されるピアノ主体のロックンロールバンドでしたが、その後チャック・ベリーがエレキギターを用いてブギウギ調のリフを奏で、そのスタイルは現在まで踏襲されています。
余談ですが、ビートルズのジョンとポールは、10代半ばでリトル・リチャードのすさまじい歌と演奏に衝撃を受け、「ロックで飯を食っていく」と決意したそうです。
服部良一とブギウギ 出会いと実験
服部とブギウギの出会いは、昭和17年、『ビューグル・コール・ブギウギ』の楽譜を手に入れたことでした。
『ビューグル・コール・ブギウギ』は、女性コーラスグループ、アンドリュース・シスターズの『BOOGIE WOOGIE BUGLE BOY』で、全米がブギブームに沸いていた時期のヒット曲です。
今まで聞いたこともない斬新なリズムにワクワクした服部は、すぐに試してみたい欲求に駆られ実験を始めます。
実験は3回行われました。
1回目の実験は昭和18年3月封切りの『音楽大進軍』で『荒城の月』のアレンジにブギを使い、2回目は昭和20年、上海で行われた音楽会『夜来香ラプソディ』の終曲にブギのリズムを入れ、李香蘭(り こうらん ※山口淑子)に歌わせました。
『夜来香ラプソディ』のリハーサルの時、8ビートの新しいリズムにとまどっていた李香蘭の
“先生、このリズム、なんだか歌いにくいわ。お尻がむずむずしてきて、じっと立ったままでは歌えません”
(引用:服部良一『ぼくの音楽人生』)
という言葉に、服部は心の中で小躍りしたそうです。
3回目は、昭和22年、笠置シヅ子が「腹ぼてカルメン」と言われた日劇公演『ジャズ・カルメン』で、『トランプのコーラス』、『闘牛士の歌』にブギを取り入れ実験しています。
3度の実験で、服部良一は、ブギウギが人びとに受け入れられる手ごたえを感じていました。
野川香文に背中を押され、ブギウギに決定
終戦後、上海から帰還した服部良一は、大衆の心をつかむために、どんな曲を作ればいいのか悩んでいました。
そんな彼の背中を押したのは、野川香文でした。日本のジャズ評論の草分け的存在だった野川は、作詞家としても活躍しており、淡谷のり子のヒット曲「雨のブルース」の作詞を手掛けています。
がれきの街となった銀座で酒を酌み交わしていた時、「次に作る歌は、焼け跡のブルースはどうだろう?」という服部の問いかけに、野川はこう返します。
「いや、今さらブルースではあるまい。それに、今はブルースを作る時機ではない。ぐっと明るいリズムで行くべきだ」
(引用:服部良一『ぼくの音楽人生』)
時代の先を読む力に長けていた野川のこの一言で、次に作る曲はブギウギだと服部の心は決まりました。
その後、歌手としての再起をかけた笠置シヅ子が服部の元を訪れたことによって機は熟し、大ヒット曲『東京ブギウギ』が産声を上げるのでした。
参考文献参考文献
服部良一『ぼくの音楽人生』.日本文芸社
上田賢一『上海ブギウギ1945』.音楽之友社
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