世の中には信じられないほど男性からモテる女性がいる。
そういう女性はただ美人だからとか、経験豊富だからとかではなく、天性の才能として男性を魅了する何かを持っているのではないかと思う。
祇園の芸妓として働いていた江良加代(えら かよ)も、そういった類の女性の1人だった。彼女はただ名妓としてモテただけではなく、近代日本の礎を作り上げた偉人たちからとにかくモテたのだ。
生まれた場所と時代が少しでも違っていたら、一国を傾けていたかもしれない稀代のモテ女、江良加代。
今回は数々の英傑の元を蝶のように渡り歩いた彼女の生涯に迫っていく。
江良加代の生い立ち
江良加代は、文久2年(1862年)に祇園社(現在の八坂神社)の近くに居を構えていた江良千尋の娘として生まれた。千尋は華頂宮家に仕えていたため、加代は出自に恵まれていて品があり、幼い頃から美しいだけでなく、芸事にも優れた少女だった。
明治維新後、成長した加代は母の勧めにより生家の近くにあった祇園・井筒屋で舞妓として座敷デビューを果たす。
加代はまだ10代の少女だったが、彼女の美人画から抜け出してきたような美しさや芸の巧みさは、瞬く間に京都中に広まっていった。
その評判を聞きつけて加代の元に訪れたのが、後に公卿から初めて内閣総理大臣となった西園寺公望(さいおんじきんもち)だった。
西園寺公望に求婚される
西園寺公望は政治家としては偉大だったが、私生活では女好きの一面があり、生涯正妻を持たずに4人の女性を事実上の妻とした人物だ。
しかし加代は西園寺から正式に求婚された、たった1人の女性だったという。
西園寺は加代に惚れ込み、身請けして東京に連れ帰り正妻として結婚しようとしたが、西園寺家の親族に反対され断念せざるを得なかった。
ちなみに西園寺家の守り神が弁財天であることから、「弁財天の嫉妬を忌避するために、西園寺家の当主となる者は代々正妻を迎えない」という俗説があるが、これはただの噂に過ぎない。
西園寺の実父である徳大寺公純は正妻を迎えず西園寺自身も庶子であったが、養父の西園寺師季は、徳大寺公純の養父であった徳大寺実堅の娘・定君を正妻として迎えていたからだ。
ともかく西園寺との結婚が破談となり、多額の手切れ金や高価な調度品を渡された加代は祇園に帰ることになる。
木戸孝允に囲われる
京都に戻った加代が次に虜にした大物は、幕末に長州藩志士・桂小五郎として活躍し、明治維新後は政治家として貢献した木戸孝允だった。
木戸には命をかけた大恋愛の末に結婚を果たした元芸妓の幾松(結婚後の名前は松子)という妻がいたが、加代の魅力には抗うことができなかったようだ。
すでに首都は東京となっており、東京に住む木戸と京都に住む加代は遠距離恋愛となったが、加代も男前で評判だった木戸に惚れ込んでいたという。
将来は木戸の妻となれると信じていた加代だが、木戸は43歳で急死してしまう。
木戸の死に打ちひしがれた加代を支えようと名乗り出たのが、初代内閣総理大臣で稀代の女好きとしても知られた伊藤博文だった。
伊藤博文の愛妾となる
加代は木戸を失った悲しみで「祇園会の練り物には出ない」と言い張った。
祇園会の練り物と言えば、祇園の芸妓たちが歌舞伎役者などの仮装をして八坂神社までの道中を練り歩く行事で、多くの人が見物しに来る一大イベントだ。
加代が木戸という後ろ盾を失ったことで祇園会の練り物に出ないと考えた伊藤博文は「加代の衣装代は自分が全て負担するから、練り物に出た方が良い」と申し出た。
伊藤の申し出を受け入れた加代は、奥女中風の豪華な衣装を身にまとい、洋犬を連れて練り物に出た。日本が西洋化し始めた明治という時代に、江戸の武家風の衣装を着て西洋から来た犬を連れて歩くという行為には、どのような意図があったのだろうか。
加代は美しくて品があるだけでなくとても気の強い女性で、上客たちに大金を使わせることをどうとも思っていなかったという。この祇園会の練り物の逸話には、加代の性格がにじみ出ているように感じられる。
それから伊藤博文のお気に入りとして別格の待遇を受けた加代だったが、伊藤との関係は3年も持たずに終わりを迎える。
それには伊藤博文の女遊びの末の借金問題が絡んでおり、加代の方から伊藤に三行半を突き付けたと言われている。
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伊藤とは金の切れ目が縁の切れ目だったわけだ。
三井財閥当主に身請けされる
伊藤と別れたモテ女加代だが、伝説はそこで終わるわけではない。なんとその後に加代を身請けしたのは三井財閥の三井源右衛門だった。
さすがに三井家の家柄が良すぎて戸籍上の正妻となることはできなかったが、妾とはいっても正妻とほとんど変わらぬ扱いを受け、加代も誠実に源右衛門に尽くし、源右衛門との間に4男2女をもうけた。
加代は大正5年(1916年)の1月に病により52歳で死去したが、生涯大切にされ、その亡骸は三井家の墓所に葬られたという。
牡丹や百合の花の妍を奪うほどの美女
加代の美しさは人々に「牡丹や百合の花の妍を奪うほどの美しさ」と評された。
しかし彼女の魅力は外見だけでなく、生まれながらに身についていた品の良さや、歌声や舞の美しさ、金持ちで権威のある男に媚びない気の強さも、あいまってのものだったと考えられる。
子どもの頃に加代を見た五代目中村歌右衛門は、加代についてこう語っている。
「子どもの時に見た京都のお加代という芸者さんほど、美人だなぁと思った人はございません。なにしろお加代さんの顔が光り輝いて見えるのですからね。」
妾という立場上、公的な記録が少ない加代だが、明治時代の芸妓としては珍しく多くの写真を残している。そして当時その写真は飛ぶように売れたという。様々な衣装をまとい写真を撮ったのも、加代が自分の価値を高めるためのしたたかな戦略だったのだろう。
自分の価値を理解し、その価値を最大限に高めて売るなら最も高く売る。すべてが真実かどうかはさておき、偶然の幸運ではなく計算された手腕で祇園の華として輝いた加代のシンデレラストーリーは、こうして現代までも語り継がれている。
参考文献
洋泉社MOOK『歴史REAL女たちの幕末・明治』
文藝春秋(編集)『文藝春秋でしか読めない幕末維新』
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