光る君へ

入内から一気に没落…東宮妃となった藤原原子(道隆女)の末路 【光る君へ】

藤原原子と書いてあったら、何と読みますか?

ふじわらの「はらこ」?それとも「わらこ」?残念ながらどっちも不正解です。

※藤原の「わら(原)」は「ふじはら」の訛りなので、原が頭にあったら「わら」とは読みませんよね。

正解はふじわらの「もとこ(又は有職読みで、げんし)」。復原(もとに復す)や原本(もとの本)などの言葉があるように、原は「もと」と読ませることがあります(ただし諸説あり)。

この藤原原子とはどんな女性だったのでしょうか。今回は彼女の生涯をたどってみたいと思います。

華やかな日々

藤原原子

藤原原子。『枕草子絵詞』より

藤原原子は生年不詳、藤原道隆(みちたか)と高階貴子(たかしなの きし/たかこ。儀道三司母)の次女として誕生しました。

同母兄弟姉妹には藤原伊周(これちか)・藤原隆家(たかいえ)・藤原定子(ていし/さだこ)・隆円(りゅうえん。僧侶)・藤原頼子(らいし/よりこ)・御匣殿(みくしげどの。一条天皇御匣殿)がいます。

生年ははっきりしないものの、兄弟たちの生年から天元3年(980年)ごろの生まれと見ていいでしょう。

正暦4年(993年)2月に裳着(もぎ。女性の成人儀式)を行い、正暦6年(995年/長徳元年)1月に東宮(皇太子)・居貞親王(いやさだしんのう。のち三条天皇)の王妃(東宮妃)となりました。

内裏の淑景舎(しげいしゃ)を住まいとしたため、淑景舎女御(しげいしゃのにょうご)や内御匣殿(うちのみくしげどの)などと呼ばれます。

原子が入内し、既に中宮となっていた姉の藤原定子を訪ねる場面はたいそう華やかなもので、その様子は清少納言『枕草子』にも記されました。

……淑景舎、春宮に参り給ふほどのことなど、いかがめでたからぬことなし。正月十日にまゐり給ひて、御文などはしげうかよへど、まだ御対面はなきを、二月十余日宮の御方に渡り給ふべき御消息あれば、常よりも御しつらひ心ことにみがきつくろひ、女房など皆用意したり。夜中ばかりに渡らせ給ひしかば、いくばくもあらで明けぬ。……

※『枕草子』第100段「淑景舎、春宮に参り給ふほどのことなど」

【意訳】原子様が皇太子殿下に嫁がれた時ほど、めでたいと思ったことはありませんでした。
1月10日に輿入れされて以来、定子様とひんぱんにお手紙はやりとりしていたのですが、なかなか姉妹で対面できずにいたのです。
それが2月の10日すぎに定子様をお訪ねになるとお手紙がきたので、いつも以上に御殿をピカピカに磨き上げ、女房たち総出でお出迎えしました。
かくして原子様がいらしたのは夜中だったので、(楽しかったこともあり)あっという間に夜が明けてしまったのです……。

女性たちの楽しい笑い声が響き渡る華やかな日々。しかしそれは永く続きませんでした。

父や姉妹たちの死。そして自身も非業の最期

藤原原子

藤原道隆。菊池容斎『前賢故実』より

長徳元年(995年)4月10日、父の道隆が病に倒れ、世を去ってしまったのです。

追い打ちをかけるように、翌長徳2年(996年)兄の伊周・隆家が花山法皇への謀叛によって相次いで失脚(長徳の変)。定子も出家を余儀なくされるなど、一族の凋落が始まりました。

また母の高階貴子も長徳2年(996年)10月に亡くなってしまいます。

原子は謀叛と直接の関係がなく、また東宮からの寵愛も変わらなかったため、特に罰せられることはなかったのでしょう。

しかし父や兄、そして姉らの後ろ盾を失った原子の立場は一気に弱くなってしまったのです。皇子も生んでいなかったため、しばしば実家へ里帰りするようになりました。

やがて姉の定子が長保2年(1001年)12月16日に崩御、長保4年(1002年)6月3日に妹の御匣殿も世を去ります。

そして妹の死から2ヶ月後の長保4年(1002年)8月3日、原子はいきなり吐血して倒れ伏し、そのまま絶命してしまいました。享年22~23歳。

原子の頓死には、彼女と同じく東宮妃であった宣耀殿女御(せんようでんのにょうご)こと藤原娍子(せいし/すけこ)が関与していたとの噂が立ったそうです。

実際に手を下したのは、娍子の女房であった少納言乳母(しょうなごんのうば)ではないかとも言われます。

終わりに

悲しみにくれる原子(イメージ)

……つぎの君は、三條院の東宮と申しゝをりの淑景舎(しげいさ)とて、花やがせ給ひしも、父ノ殿うせ給ひにしかば、御年廿二三ばかりにてうせさせ給ひにき。……

※『大鏡』一 内大臣道隆

今回は藤原原子の生涯をたどってきました。

煌びやかな世界に足を踏み入れたと思ったら、わずか数カ月で父の死により一族が没落。家族たちが次々と世を去っていく日々を、胸を締めつけられるような思いで過ごしたことでしょう。

果たして原子が暗殺されたのかどうかは定かではないものの、後に藤原娍子は三条天皇の皇后となったのでした。

中関白家の短い栄華と転落を象徴する一人として、NHK大河ドラマ「光る君へ」にも藤原原子が登場するでしょうか。

※参考文献:

  • 倉本一宏『三条天皇 心にもあらでうき世に長らへば』ミネルヴァ書房、2010年7月
角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)※お仕事相談は tsunodaakio☆gmail.com ☆→@

このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」https://rekishiya.com/

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 【光る君へ】 藤原氏の血を引く紫式部は、なぜ源氏を称える『源氏物…
  2. 【光る君へ】 敦康親王の悲劇 ~藤原定子が遺した一条天皇の第一皇…
  3. 【光る君へ】 まひろ(紫式部)が生きた平安時代 「全く“平安”で…
  4. 【光る君へ】源氏物語の主人公・光源氏はマザコンで少女嗜好のヤバい…
  5. 蛇の怨霊に憑り殺された藤原道兼の長男・福足君とは 【光る君へ】
  6. 紫式部が嫉妬した才能? 和泉式部が詠んだ恋の和歌十首を紹介!【光…
  7. 【光る君へ】 藤原彰子に仕えた小馬命婦(清少納言の娘)〜どんな女…
  8. 【光る君へ】 三条天皇の眼病は怨霊の祟り?『大鏡』を読んでみた

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

豊臣秀吉の人物像 「指が6本あった、信長を呼び捨て」〜 戦国三英傑の逸話

三英傑とは戦国三英傑(せんごくさんえいけつ)とは、天下人へあと一歩のところまで迫った「織…

坂東武者にも2軍・3軍があった?歴史学者・本郷和人の大胆な仮説【鎌倉殿の13人】

鎌倉に武士の都を興し、新たな世を切り拓いた源頼朝(みなもとの よりとも)。その歴史的偉業を支える中核…

徳川秀忠は駄目な二代目だったのか? 前編【関ヶ原の戦いで大遅刻】

徳川秀忠とは徳川秀忠(とくがわひでただ)は、徳川家康を父に持ち、三男でありながら家康の後…

【ヤマタノオロチ伝説】8つの頭を持つ恐ろしい大蛇とスサノオの壮絶な戦い

ヤマタノオロチは、日本神話における恐ろしい存在として広く知られている。この巨大な蛇の姿をした…

『西太后のトイレ事情』なぜ宮女が口に温水を含んで待機していたのか?

西太后のトイレは「特別仕様」だった?清朝末期の宮廷で最も権力を握っていた西太后(せいたい…

アーカイブ

PAGE TOP