今は昔。江戸時代の話ですが、現代のニュースも顔負けの「幕府や世間を揺るがせた性にまつわる大スキャンダル」がいくつか起こっています。
有名なところでは、美男子僧侶と大奥の女中たちが白昼堂々密通を繰り返した「延命院事件」が挙げられるでしょう。
『大奥や大名家の女性59人を抱いて死刑』 モテすぎた僧侶・日潤が起こした「延命院事件」
https://kusanomido.com/study/history/japan/edo/85594/
そして、そこから遡った江戸初期には、驚くことに「若い公家らと朝廷の女官たちが繰り広げた集団密通パーティー」が発覚し、時の天皇が大激怒、徳川家康が介入する一大事件となったのです。
今回はこの「猪熊事件」と呼ばれる公家社会の一大スキャンダルを紐解いていきます。
若く女好きの美男子の公家・猪熊教利
「猪熊事件」の首謀者は、安土桃山時代から江戸時代初期の公家・猪熊教利(いのくまのりとし)です。
教利は、権大納言・四辻公遠(よつつじきんとお)の子として天文11年(1583年)に生まれました。その後、高倉家、四辻家、山科家を継ぎ、慶長4年(1599年)には勅命により山科を改め「猪熊」を家名として、新しい家を興しています。
教利は、天皇近臣である内々衆の一人として後陽成天皇(ごようぜいてんのう)に仕えていました。
宮中の三殿の中でも最も高貴な建物とされる賢所(かしこどころ/けんしょ)で行われる神楽で和琴の腕前を披露したり、天皇主催の和歌会で詩歌を作って差し出したりなど、芸道の才能にも秀でていたようです。
「天下無双」と名高い美男子だった
何よりも、猪熊教利が注目されたのはその美しいルックスでした。昔から美男子の代名詞として知られる在原業平(ありわらのなりひら)や光源氏と並ぶほどの、「天下無双の美男子」としてその名を馳せていました。
今でいえば、SNSのイケメンアイドルインフルエンサーといったところでしょうか。
教利は、その当時流行っていた「かぶき者」(派手な着物や髪型など目立つ格好を好むスタイル)の精神を組んだ、洒落た髪型や帯の結び方を好んでやっていたのですが、それは「猪熊様(いのくまよう)」などと称されるほど注目を集め、男たちがこぞって真似をしたため京都で大流行となったそうです。
おしゃれなイケメンアイドルインフルエンサーのスタイルを真似て「自分もカッコよくなりたい!」と、ああでもないこうでもないといろいろ工夫するのは、昔も現代も変わりませんね。
超絶イケメンが引き起こしたパーティーに天皇も激怒
芸道の才能があり天下無双の美男子だった公家・猪熊教利ですが、女癖は非常に悪かったそうです。
宮中に支えている女官や人妻など、多数の女性たちと関係を持ち、そのあまりの素行の悪さは当時の資料に「公家衆乱行随一」と書かれてしまうほどでした。
そして慶長12年(1607)頃のこと。宮中の女官・長橋局(ながはしのつぼね)との密会が天皇に知られて怒りを買い、勅勘(ちょっかん・天子から受けるとがめ)により大坂に出向くこととなりました。
ところが、教利は意にも介さなかったようです。
京都に戻って公家仲間を自宅に誘い、女官たちと再び不義密通を重ねていたと伝わっています。
そんなある日。遊び仲間の若い公家・花山院忠長(かさんのいん ただなが)が、後陽成天皇にかわいがられていた広橋局(ひろはしのつぼね)の美貌に一目惚れし、密会を繰り返すようになってしまいました。
その話を聞きつけた教利は「これはオイシイ話だ!」と思ったのでしょうか。なんと飛鳥井雅賢(あすかい まさかた)などの遊び仲間の公家たちを誘い、広橋局以外の女官を呼び出すことを計画して、集団密会の輪を広げようとしたそうです。
世間でも「在原業平か光源氏か」と囁かれるほどの美男子・猪熊教利が主催する性の祝宴に誘われ、女官たちは悪いこととは思いつつも心をときめかせ引き込まれてしまったのでしょうか。
御所を抜け出していろいろな場所で集団密会を繰り広げた……と伝わっています。
とうとう天皇の耳に
そして慶長14年(1609)の7月ごろ。ついにこの集団密通が発覚します。
その数は、判明しただけでも、公家8人と女官5人、地下(官人の身分の一つ)の集団だったとか。
「花山物語」によると、当時、猪熊の友人・飛鳥井雅賢の飛鳥井家と松下家は家業としている蹴鞠をめぐり争いがありました。そして、幕府の裁可で飛鳥井家が全面的に勝ったそうです。
そこで、飛鳥井家に恨みを持つ松下家の娘が、集団密通に参加していた女官の話を耳に入れて、天皇に言上したとされています。
この事件を耳にした後陽成天皇は大激怒。「関わった人間は全員死罪」と命じたのです。
しかし、当時は幕府も捜査権を有していたために、徳川家康の命を受けた、名奉行で名高い京都所司代の板倉勝重(いたくら かつしげ)と、その三男の重昌が調査をすることになりました。
調査が進むにつれて「多くの人間が関わっていたこと」「全員死罪にすると世の中を大混乱に陥れてしまう懸念があること」「後陽成天皇の生母からの嘆願があったこと」なども考慮し、徳川家康と板倉勝重は連絡を取り合いつつ慎重に処分案を練りました。
その頃、猪熊教利は一時逃亡を図っていましたが、潜伏先で捕らえられて京都に護送されました。
そして、慶長14年(1609)の9月、板倉勝重より処分が発表されます。
事件の首謀者・猪熊教利と、公家らの密通の手引きをした牙医(宮中に仕える歯科医)・兼康備後は死罪となりました。
残りの公家や女官らは、伊豆・隠岐・伊豆新島などに流刑になり、その後の消息は不明。
一部は許されて帰還した者、流刑先の地で亡くなった者など、その運命はばらばらだったようです。
猪熊事件は、のちの世にも影響を及ぼす
この一連の公家・女官らの集団密通は、首謀者の猪熊教利の名前をとって「猪熊事件」と名付けられ、後世まで伝わることとなりました。
この事件で、後陽成天皇の「全員死刑」という意思を覆すこととなった幕府の処分がきっかけとなり、その後の朝廷と幕府の関係においては、幕府がイニシアチブを握ることとなったと伝わっています。
そして、「猪熊事件」に激しい衝撃を受けながらも、幕府の処分案に同意せざるを得なかった後陽成天皇は、状況に絶望したのか、しばしば「譲位」について触れるようになったそうです。
その後、幕府は徐々に公家支配を進めるようになっていきます。
慶長18年(1613)には「公家衆法度」、慶長20年の7月には「禁中並公家諸法度」を制定。幕府が天皇や公家をも統制することとなりました。
若い公家と女官たちが起こした「遊びのつけ」は、朝廷と幕府の関係が変わるほど重く厳しいものとなったのです。
時を経て、文化や生活が大きく変化した現代でも、そんな男女の業の深さのようなものは綿々と息づいているように感じます。
参考:
「へうげもの」山田芳裕
「日本史大事典 1」「猪熊事件」
かぶき者―織田頼長と猪熊教利 古田織部美術館 (編集)
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